「顔のない男」 1

 うららかな春の陽気の土曜日である。
 午後2時、都内某所にある富士見商店街は結構な人出でにぎわっていた。昭和時代の佇まいを残したどこか懐かしい風情の商店街である。車がやっとすれ違えるほどの道幅なので車両は一方通行。駐車場を備えた店もほとんどないため、そもそも車は滅多に入ってこない。人々は道いっぱいに広がってあちこちの店をのぞきながら歩いている。高級ブランド品を売るような店はないが、100mほどの通りを歩けばたいていの用事は足りるから、地元民には重宝されていた。

 最初に異変に気付いたのは不動産屋の奥さんだった。店のガラス戸に新しい物件の貼り紙をしようと表を見ると、向かいの理髪店の前に停まっている車の脇で二人の男が声高に話をしていた。いや、正確に言えば、片方の男が何やら声を荒げていて、もう一方の男はただうなだれているだけだ。ジロジロ見てるんじゃねぇとか、ウロウロするなとか、声を張り上げている男には見覚えがある。ほとんど毎週のようにこの理髪店にやってくる白髪のお爺さんの送り迎えをしているヤクザっぽい運転手だ。車がほとんど入ってこない商店街だからこそ、定期的にそこに停まっている車と運転手を覚えていたともいえる。
 怒鳴られてうなだれている男の方は、こちらからは顔が見えないが、20代から30代くらい。目深にキャップをかぶり、ありふれた紺のチェックのシャツと着古したジーンズを身に着け、左手には茶色い紙バッグをぶらさげている。
 早く逃げればいいのに。因縁をつけられてかわいそうだわと思いながら、それとなく表に出て眺めていると、キャップの男がギクシャクとした動きで紙バッグに右手を入れるのが見えた。そして手を突っ込んだまま紙バッグを運転手の腹のあたりに押し付けた。
 ふいに、運転手のぎゃんぎゃん言う声が途絶えた。彼は不思議そうな顔をして自分の腹部を見下ろしている。キャップの男は相変わらず紙バッグを運転手の身体に押し付けたままだ。茶色い紙バッグの底が何故かじわじわと赤黒く変色していく。
 数秒間の静寂。
 次の瞬間、不動産屋の奥さんの悲鳴が商店街に響き渡った。

 その日の夕方から翌日曜日にかけて、テレビは「富士見商店街連続殺傷事件」もしくは「富士見商店街通り魔事件」のニュースしかやっていなかった。どの局も救急車やパトカーの赤い回転灯が画面をよぎる映像を配信し続け、規制線が解除されるやいなや何人ものレポーターが通りを駆けずり回って興奮した声を全国に垂れ流した。
「ここです。ここで犯人はまず山本則夫さんの腹部に包丁を突き刺しました。続いて、ちょうど理髪店から出てきた大沢健吉さんの胸にも包丁を突き刺しました。犯行を目撃していたこちらの奥さんにお話を聞きます」
「もうね、最初は何がなんだか、わからなかったの。でも、二人の……そう、犯人と運転手さんよ。二人の足元に何か赤いものが、いっぱい、ぼたぼた落ちてきて……。血だ、ってわかって、私、悲鳴を上げたと思います。そのあと、あのお爺さんも襲われちゃって……」
「山本則夫さんと大沢健吉さんの二人は、救急車の中で死亡が確認されました。ほぼ即死だったとのことです」
「二人を刺した犯人は、こちら、東の方向へ向かって走りました。……そして……、ここ。最初の犯行現場から10mくらいの地点でしょうか。こちらの青果店のご主人が犯人を止めようとして腕に切りつけられました」
「女性のものすごい悲鳴が聞こえてさ。何ごとかと思って往来に出たんだよ。そしたら、えらい勢いで男が走ってきたもんだから、なんだかわからないけどとっさに止めようとしたんだよ。包丁?いや、そのときは見えなかったね。見えてたら防ぎようもあったかもしれないけど。紙バッグの中に包丁が入ってたんだねぇ。腕をバッサリ切られて、転ばされちまって……。オレがあいつを止めてたら……ねえ。悔しいよ」
「容疑者は更に走りました。走りながら血に濡れた紙バッグをここに破り捨てました。痕跡が残っていますね。目撃した人に話を伺ったところ、それからはめちゃくちゃに包丁を振り回しながら走っていったそうです。そして次の被害者が出てしまいました。青果店から東に20mほどのところにある書店の前です」
「はい、うちでよく本を買ってくださっていた小池さんという女性です。レジでお金をいただいているうちに、お連れの坊やが先に店を出ちゃったんです。そのとき何か通りが騒がしくなって……、ええ、悲鳴や叫び声が聞こえましたし、たくさんの人が走っていましたし。……で、小池さんも急いで店を出られたんです。そしたら、坊やが道の真ん中に立っていて……、あっちから腕を振り回しながら男が走ってきて……。小池さんは坊やの前に飛び出していかれたんです。そうしたら、男に首を切られて、血が噴き出して、……もう、言葉が出ません」
「小池美奈子さんは喉元を切りつけられました。最寄りの自性会早明病院に搬送されましたが、病院で死亡が確認されたとのことです」
「男は更に走りました。何も知らずに商店街に入ってきた高校生の一団に突っ込み、振り回した包丁によって三人が腕や足などに軽傷を負いました。避けようとして自転車で転んだ男子高校生も軽いけがをしました」
「なんかテロ的な?ちょーヤバかった。え、マジっすかーみたいな」
「白昼の惨劇はここ、この地点で衝撃の結末を迎えました。ここはT字路になっています。アルファベットのTの字を思い浮かべてください。横棒の右半分が富士見商店街で、左半分は住宅街です。縦棒が通称“極楽通り”と言われる飲食店街になります。縦棒が横棒に接するところ、極楽通りの突き当りに富士見郵便局があります」
「犯人は富士見商店街を走り抜け、左に曲がりました。極楽通りへ曲がっていったのです。曲がった途端……曲がった途端にですね、ここで、極楽通りを暴走してきたライトバンにはねられてしまったのです」
「5m……いや10mくらいは吹っ飛んだと思うよ。後ろ向きに宙を飛んだのが見えた」
「極楽通りの方へ曲がって逃げたんだと思ったら、ドカーンってものすごい音がして、また姿が現れたの。車にはねられて飛ばされたのね。商店街の通りを横切って飛んで、郵便局の脇の電柱に頭からぶつかっていったの。そう、後頭部から」
「イヤなもん、見ちゃったし聞いちゃったよ、まったくもう……。ドカーーン、グシャッ、ドゴーンだよ。最後のドゴーン?電柱にぶつかったのがグシャッだろ。そのあと下に落ちるときに前のめりになって、顔を郵便ポストに打ち付けたのがドゴーンだよ。あの音は一生忘れねえな……」
「容疑者の男は東西大学病院に搬送されました。いまのところ、生死もけがの程度も不明です。男の身元もまだ明らかになっていません。また、極楽通りを暴走してきたライトバンはそのまま左へ折れて逃走しました。つまり富士見商店街とは反対の方向へ走り去ったのです」
「極楽通りに設置された防犯ビデオから車のナンバーが確認されましたが、事件当日の午前中に都内のパチンコ店の駐車場から盗まれて盗難届けが出されていた盗難車であることが判明しました。最近都内で頻発している外国人グループによる車の窃盗事件との関係も含めて、警察が車の行方を追っています」
「富士見商店街と極楽通りが接するまさにこの地点で、偶然にも二つの事件が接したのです。あまりにも運命的、あまりにも象徴的な出来事と言わざるを得ません。そしてその衝撃的でやり切れぬ結末には、もはや言葉もありません。現場からは以上です」

 日曜日の夕方、岬の家では、ピノコが食い入るようにテレビに見入っていた。
「ひろいわのよ。なんれこんなことすゆのよさ……」
「何が広いんだい」
書いているカルテから目も上げずにBJが言った。
「ひどいって言ってんのよ。先生わかってゆくせに」
「子どもがそんなもん見るんじゃない。それより、そろそろ晩飯の支度の時間じゃないのか」
「カレーがたっぷり作ってあゆかや大丈夫。あとはサラダでも作ゆことにすゆけろ……」
「けど、何だよ」
「先生。ピノコ、子ろもじゃないかや」
怒ったふうを装ってキッチンに向かうピノコを見送ってから、BJはテレビの画面に目をやった。商店街の路上や郵便局脇の電柱、四角いポストなどがモザイク処理されて映っている。そこに流された大量の血はまだ乾ききってはいないのだろう。三人を殺害した男の生死はまだ不明だという。
「東西大学病院か……」
 天才外科医はひとりごちた。

 午後6時。テレビで生中継が始まった。
「それでは、これより記者会見を行います。私の隣が東西大学病院の院長・池端慶之教授。その隣が外科部長・白拍子康彦。私は事務局長の安井肇でございます。昨日発生した『富士見商店街無差別連続殺傷事件』の容疑者の容態についてご説明したいと存じます」
 配られた資料をバサバサとめくる音、無数のシャッター音、キーボードをたたくカチャカチャという音をマイクが拾っている。東西大学病院の大会議室には新聞、テレビなどの報道陣が150人ほども集まっていた。正面にしつらえられた長机の上には無数のマイクやレコーダーが置かれている。三人が着席した。
「これより着座のままで失礼いたします。また最初にお断りしておきますが、この容疑者につきましては未だに姓名が判明しておりません。いずれ警察の方から詳しい発表があるでしょうが、昨日午後2時45分に当院に救急搬送されてきたこの容疑者は、その時点で身元を証明できるものを何一つ身につけていませんでした。それで、ここでは単に『患者』と呼ばせていただくことにいたしますのでご了承ください。では白拍子先生、お願いいたします」
 白拍子がマイクを握ると無数のフラッシュがたかれた。病院長の池端がでっぷりと肥えて鈍重な印象を与えるのに比べて、白拍子はいかにも育ちの良さそうな清潔さとスマートさを持っていた。髪は綺麗になでつけられており、糊のきいた白衣にはもちろんシミひとつない。趣味の良いネクタイを締め、顔立ちも悪くなかった。海外で外科手術の腕を磨き、若くして外科部長として迎えられた超エリートだ。話題性もあり写真に収めておいて損はない人物だったから、下世話な週刊誌の記者たちも盛んにシャッターを切っている。
 緊張しているわけではないだろうが、白拍子は少し青ざめた顔で話し始めた。
「外科部長の白拍子です。患者の現在の状態について所見を申し述べます。昨日、患者は心肺停止の状態で当院に搬送されてきました。当院救命救急センターにおいて直ちに蘇生措置が行われ、一命を取り留めておりますが、意識レベルは300です。患者は、20代から30代の男性。身長172㎝、体重は60㎏。手術痕などは無く、身体的に特筆すべき特徴は見当たりません。血液型はO+です。そして現状ですが、一言で申し上げて、予断を許さない状態が続いています」
 会議室がざわついた。
「まず正面から車に激突した際に多くの内臓を損傷しています。小腸、上行結腸、横行結腸、膵臓、肝臓など。特に重篤なのが肝臓からの出血で、これを抑えるのが喫緊の課題となっています。ただいま内科とチームを組んで対処しているところです。続いて、電柱にたたきつけられたときにできた脊椎と後頭部の損傷。頸椎と胸椎の多くが骨折またはヒビが入った状態です。また頭頂骨と後頭骨が広範囲に陥没していました。その衝撃により、脳実質の頭頂葉、後頭葉、また前頭葉からも出血と浮腫が見られます。命を取り留めることができたとしても、何らかの後遺症が残るかもしれないレベルです」
 また会議室がざわついた。
「続いて、ポストに打ち付けたという顔面の損傷について。鼻骨、上顎骨、下顎骨、涙骨、頬骨の骨折などです。出血部位からの血液が気管に流れ込むので吸引を行い、現在は口から挿管して呼吸を確保しています。そして、これは警察からの発表を待つべきことかもしれませんが……」
 白拍子は言葉を切った。池端院長を見やると、重々しく頷いたので、白拍子は言葉を継いだ。
「患者の顔面の損傷が甚だしいことを指摘しておきます。鼻は潰れていて隆起は無いに等しく、左眼球も破裂しています。歯もほとんど折れて欠落していますし、皮膚の裂傷も深い。つまり、顔の様相を呈していない状態です」
 会議室が大きくどよめいた。
「それはつまり、顔が判別できないということですか?」
 最前列の記者が思わず質問を発した。まだ質疑応答の段取りではなかったので安井事務局長が口を挟もうとしたが、池端院長がそれを制して自らマイクを握った。
「そのとおりです。顔というものの原形をとどめていない、ところどころに穴があいているただの血まみれの肉塊という表現がふさわしいでしょう」
 その場にいた全員が息をのみ、思わず顔をゆがめた。身震いする者もいる。
 院長は無頓着に話を続けた。
「ですから、警察も患者の身元を調べるのに手間取っているのです。帽子をかぶっていたせいで防犯カメラにも顔ははっきり映っていなかったと聞いています。現場に居合わせた人々も逃げるのに懸命で、患者がどんな顔をしていたのか、誰もはっきり覚えていない。モンタージュ写真を作って捜査することもできないわけです。指紋は当院で採取してすぐに提出しましたが、警察が蓄積しているデータの中に該当者はいなかったそうです。歯の治療痕から調べようにも、歯そのものが砕けてほとんど残っていない。現在はDNA鑑定が行われているようですが、この患者の身元捜査に関して、警察はお手上げ状態なのです」
 一気にしゃべって喉が渇いたのか、院長はグラスの水をゴクリと飲んだ。
 (そこまで言わなくても……)という顔で安井事務局長がさかんに院長を見ているが、院長はいっこうに気にしない。立ち上がると、拳を振り上げながら力説し始めた。
「警察に協力するために、この患者の治療に専心することが我々の責務であります。幸いにも当院にはこの白拍子外科部長をはじめとして、日本でも、いや世界でも指折りの医師が大勢おります。また設備面においてもここには世界最先端の医療機器が揃っています。間違いなく日本一充実した病院であると自負しているところであります。当院で救えない患者はいないと言っても過言ではありません。確かにあの患者の症状は重篤です。しかし、甚だ困難な道ではあるにせよ、わが東西大学病院は死力を尽くしてこの患者の治療に邁進する覚悟であります」
 場にそぐわないこの演説に場内は白けた。事務局長はオロオロし、白拍子はそっぽを向いた。
「で、では、質問を受け付けます。質問のある方は挙手してください」
 事務局長が強引にマイクを奪い取り、司会を続行した。院長はまだしゃべり足りない様子だったが、一応の満足はしたらしく、質疑応答は白拍子に任せてその後は一切発言しなかった。

 記者会見を取材し終えた報道陣は全員病院の敷地の外に追い出された。記事や番組を編集するために急いで社に戻る者もいたが、大半は病院前に陣取ってスクープを狙った。「予断を許さない状態」と発表されたからには、いつ何時事態が動くかわからないのだ。正門だけでなく裏門にも大勢の記者やカメラマンが張り付いて、病院関係者や警察関係者の出入りに注意を払い、誰彼かまわずにインタビューを敢行してはすげなく断られていた。

 午後10時。今度は警察が記者会見を行った。東西大学病院長の発言に挑発されて急遽セッティングしたのかもしれない。捜査本部長がまず事件の概要を説明した。犯行に用いられたのは刃渡り22センチの刺身包丁であり、どこで購入されたものか捜査中であると発表された。続いて被害者三人について姓名、年齢、死因等が発表されたが、テレビや新聞で既に報じられた以上の情報はなかった。最大の関心事である被疑者については「身元不明であり、捜査中」の旨が伝えられただけで、テロではないかとの質問にも「捜査中」との返答があったきりだった。ただ、被疑者をはねて逃走した盗難車については「今夕、多摩川上流の河川敷に乗り捨てられているのを発見。現在、残留物について調査中。なお、極楽通りに設置された防犯カメラの映像から、運転席に座っていたのは目出し帽をかぶった人物」と発表されたのだけが新しい情報だった。

 日曜日から月曜日に曜日が変わる頃、東西大学病院上空にヘリコプターが飛来した。二晩続けての張り番にウトウトしていた記者連中も、その轟音にはさすがに目を覚まして空を見上げた。煌々とした光の中にドクターヘリが浮いている。
「急患だな」と誰かが呟いた。
「離島からかな」
「医者ってのも因果な商売だねえ。昼でも夜でもお構いなしだもんな」
「俺たちと同じだな」
「年収の額は桁違いだけどね」
「ここの院長とは二桁違うかもしれないぜ」
「たしかに。しかしあの演説には参ったよなぁ。ふつうあそこで一席ぶつか?」
「ふん、将来は政治家にでもなるつもりなんじゃないか?あれで全国に顔は売れたからな」
「そう言えば、あの院長出てきたか?」
「いや、見ていないな。裏門から出たかもしれない。それか、俺たちが張り込む前にさっさと帰っちまったか」
「いいよ、別に。用はないし」
「だな」
 記者たちが雑談している間に、ドクターヘリは病院屋上のヘリポートに着陸して、地上からは見えなくなった。ローター音が次第に静かになっていったが、ものの1分ほどでまた轟音とともに舞い上がり、夜空の向こうへ飛び去っていった。都会の夜に静寂が戻った。

 同じ頃、白拍子は池端に呼び出されて院長室へ向かっていた。記者会見の後すぐにあの患者のもとに取って返し、いまも懸命に脳圧を下げる処置を行っていたところだ。記者会見では一分の隙もないエリート医師の姿を披露していた白拍子だが、いまは髪も乱れて顔にも疲労の色を滲ませている。
 何の用かと急いで駆けつけてみれば、池端は椅子に深々と身を沈めてテレビを観ていた。よく見ると、先ほどの記者会見の録画であるらしく、画面にはちょうど熱弁をふるう池端が映し出されていた。
「やあ、来たかね、白拍子君。なあ、どう思う?私はもうちょっと東西大学病院の素晴らしさについてアピールしたほうがよかったんじゃないかな。安井が途中でぶった切ってしまったんだよ。君ももっとしゃべりたかったんじゃ……」
「院長」
 今度は白拍子がぶった切った。
「ご用件は何でしょうか。私はあの患者の治療の途中なのですが」
「ああ、そうだったな」
 池端は不承不承に再生を止めると、おもむろに椅子を白拍子の方に回転させた。
「あの患者の容態はどうかね。今夜のうちに何も起こりそうにないなら、私はもう帰ろうと思うのだが。なにしろ昨夜も帰っていないのでね。いちおう主治医の君の報告を受けてからと思って、来てもらったのだ」
 ムラムラと怒りがこみ上げてきて、白拍子は目の前のこの男の顔をめちゃくちゃに殴ってやりたくなった。ふざけるな!そんなことなら、自分からその短い脚で集中治療室までやって来い!何もできないくせに自分だけ帰る算段か!この無能な俗物が!頭の中でありとあらゆる雑言が渦巻いたが、なんとか手を出すことだけは堪えた。
 しかし、どうしても聞き捨てならない一言があった。憤りで目が眩みそうになる一言が。
「今夜のうちに何も起こりそうにない、とはどういう意味でしょうか」
 低く絞り出した声が震えているのが自分でもわかる。
 池端はきょとんと白拍子を見つめると
「どう、って。今夜はもちそうか?という意味に決まってるじゃないか」
 と言った。
 ここに至って白拍子はキレた。院長のデスクにバンと両手をつくと、池端に食ってかかった。
「いったいどういうご料簡ですか、院長。現場は必死になってあの患者の治療に当たっているのです。昨日からこっち、誰もがフラフラになりながら頑張っているのですよ。それを、院長は最初に一度患者をご覧になっただけで、あとは知らん顔をなさっている。なおかつ、記者会見ではあれほど患者を救うと力説なさっていたのに、いまのお言葉はいったい何なのですか。患者はまだ死なないのかと言わんばかりではないですか。院長にはあの患者を救おうというお気持ちはないのですか。それよりなにより、私ではあの患者を治せないとお思いですか!」
 白拍子は一気に言いつのった。この男の機嫌を損ねたことでクビになるならそれでもいいと思った。凡庸で、うまく立ち回ることだけでのし上がってきたこの男の下で働くくらいなら、いっそのこと、この場で辞表を書いたほうがましだ。私は世界中の一流病院からオファーを受けている白拍子康彦なのだぞ。
 池端は白拍子のあまりの剣幕にしばらく呆気にとられていたが、やがてゆっくりと身体を起こすとじっと白拍子の顔を見つめた。それまでとは打って変わってゾッとするほど冷酷な目つきだった。
「実際、治せないだろう?」
 白拍子は言葉を失った。頭に上っていた血がザッと音を立てて引いた。何ということを言うのだ、この男は。それに、この目は何だ。すべてを見透かすようなこの目は……。  
 存分に白拍子を戦慄させてから、ふいっと池端が表情を和らげた。
「誤解するな、白拍子君。あの患者を治すことのできる医者など、世界中どこを探してもいないという意味だよ。あの患者は間違いなく死ぬ。なにしろいま生きているのが不思議なくらいなのだからな」
「し、しかし、院長は先ほどあれほど自信たっぷりにおっしゃったではありませんか。『当院で救えない患者はいない』と」
「ああ、言ったな。しかし『救えない患者はいない』とは言ったが『治せない患者はいない』とは言っていないぞ。いま、あの患者にとっての『救い』は何だと思う?死なんだよ、わかるか。想像を絶する苦しみから解放されて死ぬことなんだよ。考えてもみたまえ。奇跡的に彼が治ったとしても、彼は裁判にかけられて、結局は死刑が宣告されるだろう。死刑にするためにわざわざ彼を治す必要がどこにある?無駄じゃないかね。だったら、ここで死なせればいいじゃないか。それが彼にとっても『救い』になるんだよ。どうだ。『当院で救えない患者はいない』という私の言葉に間違いはないだろう?」
 得意げな池端の顔を見て白拍子は拍子抜けした。こんな男に、つい先ほど底知れぬ恐怖を覚えた自分が悔しくなった。
「詭弁でしたか……」
「そう思うのはかまわんがね。しかし、君にはあの患者をもう少しのあいだ生かしておく努力をしてもらわねばならんのだ。君も知っているだろうが、当院は“次世代高度先端医療構想”の中核機関に名乗りを挙げている。いまは、それがまさに指定されようという大事な時期だ。強力なライバル病院はたくさんある。それらの病院を蹴落とさなくてはならない今このときに、あの患者を死なせたりしたら大変な失点になるのだよ。なにしろこれだけ世間の注目を集めている事件の容疑者なのだからな。まあ、指定されようがされまいが私の地位はちょっと箔が付く程度で、あまりメリットはないんだが……。それでも病院自体の格は上がるからね。指定は受けておいたほうがいいんだ。」
 池端はおもねるような笑顔を浮かべて白拍子に近寄ると、声をひそめて囁いた。
「なに、あと一日か二日だよ。中核機関に指定されるまで生かしておいてくれればいいんだ。うちくらい設備が整っていれば、……なあ、できるだろう?期待しているよ、白拍子外科部長。いや、次期院長候補と呼んだほうがいいのかな」
 立ち上がって白拍子の肩をポンと叩くと、池端は帰り支度を始めた。
 白拍子はその場に立ち尽くしたままワナワナと身体を震わせていた。これまでの人生でこれほどの屈辱を味わったことはなかった。栄光と称賛のスポットライトを浴び続けてきた彼に、こんな俗物の手駒としていいように使われる状況が訪れようとは、想像すらしたことはなかった。
 たとえ患者が死んでも池端はケロリとしているだろう。それは白拍子のキャリアに傷がつくだけで、池端個人にとってはたいして痛くも痒くもないことなのだ。将来は政治家になるだとか、日本医師連盟の会長の座を狙っているだとか言われているこの男にとって、あの患者の存在は、もし助かれば儲けものというほどのことでしかないのだ。
 立ち尽くした白拍子が、部屋に鍵をかけるから君も出てくれと池端に言われたとき、デスクの上の電話が鳴った。あの患者に何かあったかと白拍子はドキリとしたが、それなら彼のポケットの院内PHSに連絡が入るはずだ。池端が引き返してきて受話器を取った。
「私だ。……なんだ、君か。こんな時間にどうした」
 うん、うん、と耳を傾けていた池端の顔が徐々に不審げなものになっていった。
「なんだって?いや、私は聞いていないぞ。……うん。……わかった。知らせてくれて助かった……うん」
 受話器を戻した池端はいささか当惑した面持ちで、安井かな、と呟いた。この男にしては真剣な顔つきをしているので、白拍子は先ほどまでのいきさつも忘れて、何かあったのですかと尋ねた。
「うん。いや、大したことではないのだがね。誰かがここにBJを呼んだらしいのだ。さっきドクターヘリから降りるのを偶然見たと、内科の看護師長が教えてくれた。おそらく安井の仕業ではないかと思うのだが……」
 白拍子は驚愕した。
「なんですって?!BJを呼んだ?!安井さんがなんだってあんな男を呼ぶのですか」
「あの患者を診せるつもりかもしれない」
「そんな……!あいつは法外な報酬で手術をする無免許医なんですよ!彼に患者を診させるなんて不法行為だ!それに、そんなことは当院のすべての医師に対する侮辱です!」
「ああ、我々のようなまっとうな医者にとっては許しがたい行為だな。だが、安井事務局長は当院が“次世代高度先端医療構想”の中核病院に指定されることを誰よりも望んでいるんだ。成功すれば、彼は理事になることが決まっているからな。安井はこれまで各方面に、とても大きな声では言えないような働きかけもしてきている。その努力を水の泡にしたくはないのだろう。藁にもすがる思いでBJを呼んだのかもしれない」
「そうですか。つまり、私は、院長に信頼されていないだけでなく、事務局長からはBJ以下、いや、藁以下の実力しかないと思われているということなのですね」
 吐き出すように白拍子が言った。誰も彼もにバカにされて、もう何もかもがどうでもよくなった。BJがしゃしゃり出てくる前に、あの患者をすぐにでも死なせてやろうかという思いが頭をよぎる。自分が何もしなければいますぐあの患者は死ぬのだ。“次世代高度先端医療構想”中核病院への期待なんぞぶっ潰してやろうか……。
 白拍子を怒らせることは得策ではないと思ったのか、池端は猫なで声でなだめた。
「いやいや、とんでもないよ、白拍子君。私は君には大いに期待しているのだよ、うん。それに、さっきも言っただろう。あの患者はいずれ死ぬ。万に一つも生き延びることはないよ。誰にも治せやしないんだよ。私の見立ては確かだ、安心したまえ」
 だから、それがバカにしているというのだ!と、池端への憎悪は更に増した。しかし患者の容態を思えば「必ず治します」と宣言することもまたできなかった。誰にも治せない。白拍子自身も心のどこかでそう思っていたのだから……。
ジレンマと怒りに目が眩みそうになったが、このまますごすごと立ち去ることは彼のプライドが許さなかった。池端の目論見どおりになどさせるものか!
 白拍子は、考え得る限りの反撃を試みた。
「院長。いま『誰にも治せない』とおっしゃいましたが……」
 白拍子は池端の目をのぞき込みながら言った。
「BJなら治してしまうかもしれませんよ。院長のお見立て違いにならなければよろしいのですが」
 そう言い捨てると、白拍子は足早に院長室を出た。
 それは白拍子自身も深く傷つく諸刃の剣のような言葉だった。しかし、池端にまだほんのわずかでも医者としてのプライドが残っているなら、この言葉は効くはずだ。
 ドアを閉めるときにチラリと見た池端が、まるでこの世の終わりを見たゴリラのように呆然としていたことに、少しばかり溜飲が下がった。 
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント