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「顔のない男」 2

 安井事務局長はBJを特別個室に案内した。何かマズい状況に陥った政治家が適当な病名でしばらく入院するようなときにだけ使われる病室である。一般病棟の最上階に位置しているが、「関係者以外立入禁止」と書かれたドアの奥にあって、院内案内図にも載っていない極秘の部屋だった。室内には豪華な調度品が置かれ、一流ホテルのスイートルームと比べても遜色がない。
 ヘリポートから誰にも見られないようにこの部屋までBJを連れてきた安井は、ドアを閉めるとほっとした様子で如才なく挨拶をした。
「早速お越しいただいて恐縮です、BJ先生。しばらくはこちらにご滞在いただくことになりますので、何なりと……」
 BJが安井の言葉を遮った。
「すぐに集中治療室へ案内されるものと思っていたんですがね。患者は一刻の猶予もないのでしょう?」
 予定していた段取りと違う単刀直入な質問に、安井はへどもどした。
「はい、いえ、あの、いまは白拍子先生が懸命に治療に当たっていますので……。BJ先生には、その、つまり、患者がいよいよという状態になったときにですね、内密に、なんとか患者の命を救っていただきたいと……」
 BJがスッと目を細めた。安井を見下ろしたまま、黙っている。
 明らかに怒気をはらんだ沈黙だった。その目のあまりの迫力に、安井は身をすくませた。、周囲の気温が一気に10度ばかり下がったように感じられた。背中を冷たい汗が伝う。ガタガタ震えながら、か細い声を継いだ。 
「いえ、あの、つまりですね。BJ先生をお呼びしたのは私の一存でありまして……。池端院長も白拍子先生もご存じないことなのでして。……あの、……あの、すっかり事情をお話ししますので、どうぞお掛けください。どうぞ……」

 それから15分ほどもかけて、安井はなんとか事情を話し終えた。東西大学病院が“次世代高度先端医療構想”の中核機関に指定されるべく、これまで努力を続けてきたこと。いまはそのいちばん大事な時期であること。そこへ降ってわいたように厄介な患者が運び込まれてきて、何としてでも治さなくてはならなくなったこと。白拍子は懸命にやってくれているが、好転の兆しは見られず、どうやら白拍子自身にも治せる確信がなさそうであること。池端院長に至っては、病院と自身の売り込みができればよいのであって、ハナから治そうという気もないらしいこと、等々であった。
「それで、私の一存で、先生をお呼びしたのです。先生のご高名は以前から伺っておりましたので、なんとかその“神の手”で患者を治していただきたいと思いまして。しかし、まことに失礼ながら、先生は医師免許をお持ちではないとのことで……。院長や白拍子先生の手前、大っぴらにお迎えすることもできず、それに、病院はすっかりマスコミや警察に取り囲まれておりまして、彼らにわからないように先生にお越しいただきたかったわけでして。それでドクターヘリをお迎えにやったというですね……」
 BJは片手を挙げて、安井を制した。ここまで一言も口を挟まずに聞いてきたが、この調子でしゃべられたら、何時間かかるかわからない。
「だいたいのことは、わかりましたよ。しかしあんたも無理難題を言うね。ギリギリまで白拍子にやらせて、もうダメだってときに私に代われって?」
「え、まあ、そういうことでございまして……。何としても、いま当院において、あの患者を死なせるわけにはいかないのでして……。なにしろ、当院は“次世代高度先端医療構想”の……」
 BJは天を仰いだ。この男とは意思の疎通ができそうにない。
「安井さん。この話はなかったことにしていただきましょう。私はただの外科医でしてね、魔法使いじゃないんです。患者も診せてもらえないのに、いきなり手術なんかできませんよ」
 BJがソファからすっくと立ち上がったので、安井は慌てて彼を押しとどめた。
「いや、ちょっと、あの、お待ちください、BJ先生。患者の状態はですね。あちらのモニターで見られるようにしておきましたので。私のこのIDでアクセスしていただければですね、リアルタイムで映像も見られますし、患者のカルテも……」
 BJは安井が差し出したメモを受け取ると、窓際のパソコンの前に移動した。カチャカチャとキーボードを操作して、モニターに集中治療室のライブ映像を映し出させる。
「いま、先生をそこへお連れするわけにはいかないのでして。なにしろ、先生がこちらにいらっしゃっていることは、私しか知らない秘密なのでして……」
 安井が後ろからくどくどと言いつのっている。BJは画面を食い入るように見つめている。
「それから、報酬の件なのですが……。お電話さしあげたときに提示いたしました1千万円はですね、いよいよ先生があの患者を治療なさる段になってから起算するということで……、ええ、つまりですね、こちらといたしましては、現時点ではまだ先生に正式な依頼はしていない状況ということになるわけでありまして……。まあ、言うなれば成功報酬というような意味合いになるかと思いますけれども、その点をお含みおきいただければと思っているような次第でして……。も、もちろん、その間はですね、この部屋を自由に使っていただいて結構でございまして、なんでもご用命をですね……」
「安井さん」
「は、はいッ」
 安井はその場で小さくぴょんと飛び上がった後、直立不動になった。固唾を飲んでBJの次の言葉を待つ。
「今夜は徹夜になりそうだ。早速だが、コーヒーをブラックで頼みます。ポットにいっぱい詰めて持ってきてください」
 承知いたしましたッ!と叫ぶと、東西大学病院事務局長はホッとしたような顔で部屋を飛び出していったのだった。

 月曜日の朝刊各紙1面には「顔のない男の凶行」の大見出しが躍った。「容疑者をはねた盗難車を多摩川沿いで発見」の記事はそれよりかなり小さい扱いとなった。他に大きな事件もなかったため、社会面もほぼこの事件の記事で埋め尽くされた。また、テレビのワイドショーも繰り返しこの事件を扱い続けた。警察OBや犯罪心理学者などがゲストコメンテーターとして得々と持論を繰り広げたが、結局は「真相を明らかにするためにも、容疑者の回復が待たれます」という点に落ち着くしかなかった。
 一方、ネットの掲示板やSNSでも様々な書き込みが飛び交った。
「顔がそれだけつぶれるって、こわくね?」
「今日、無断欠勤した同僚がいるんだが、犯人と背格好が似ている件」
「うちのおじいちゃんは昔ひき逃げ事故にあったのですが、病院をたらい回しにされて亡くなりました。殺人犯はすぐに病院に入れてもらって治療も受けられて……。おじいちゃんより殺人犯のほうが大事にされている気がします」
「白拍子センセー、LOVE」
「どうせ、誰でもいいから人を殺してみたかったとか言うに決まってる」
「誰が治療費出すの?税金?」
「きょう、あの商店街に買い物に行ってみる」
「殺人犯を治療してやる必要なんかないっしょ」
 云々かんぬん。

 深夜1時に病院を出て帰宅した池端は9時に出勤してきた。正門を出るときも入るときも、報道陣からは見事にスルーされた。白拍子にあれだけ嫌味を言われたせいもあり、すぐに患者の様子を見に行ったが、白拍子からは無言で睨まれ、他の誰からも相手にされなかったので、これ幸いとばかりに院長室に落ち着いた。患者はまだ生きていた。
 さて、と、しばらく考えてから、池端は安井に電話をかけて、院長室に来るように言った。
「おはようございます、院長」
 と、明るく部屋に入ってきた安井だったが、BJを呼んだだろうとズバリ言われて絶句した。
 病院長であるこの私に内緒でそんなことをしたのかとネチネチ責められ、報酬は1千万と言うと、おまえはバカか、と怒鳴られ、東西大学病院の名誉にかけてあんなモグリには絶対に手出しさせるなと念を押され、いえ、その点についてはまだ正式に依頼をしたわけではありませんのでと手柄のように話した。
 池端はつけっぱなしのテレビに目をやった。昨日の記者会見の模様が流れている。
「安井君。この件について私はまったく何も聞かなかったからな」
 池端がテレビを観たままボソリと言った。安井はしばしその言葉の意味を熟考し、池端が黙認したのだと了解して深々と頭を下げた。
 しっしっと犬を追うように手で払われたので、安井はほっとして院長室を辞した。

 夜を日に継いで白拍子の奮闘は続いていた。
 次々にできる塞栓の処置をしながら、彼の脳裏には昨夜自分が池端に向かって吐いた言葉がこびりついていた。トロトロと仮眠を取っても、耳元に自分の声が聞こえて飛び起きた。
(BJなら治してしまうかもしれない、だと?!)
 安井事務局長がBJを呼んだかもしれないことを、彼は誰にも話さなかった。あの時点で確かな情報とは言えなかったし、そんなことは彼のプライドが許さなかったのだ。
(この患者は絶対に渡さない!)
 池端や安井の思惑などどうでもいい。だが、BJにだけは負けたくなかった。その意地が、いまの白拍子を動かしている原動力だった。

 表面上は何の変化もなく、月曜日が過ぎていく。
 安井は自ら朝昼晩とBJに食事を運び、午後10時にはコーヒーを入れたポットを運んだ。いつ部屋を覗いても、BJはパソコンにかじりついていた。ベッドにはカバーがかかったままで、横になった形跡もなかった。食事は何でも院外からお取り寄せしますと言ったのだが、面倒くさそうに普通の病院食でいいと言われた。何か必要なものは、と尋ねても、何もないから出ていってくれと追い払われた。改めて釘を刺す必要もなく、この無免許医は軽々しく部屋を出たりしないと安井は確信した。

 深夜、モニターを凝視し続けたBJの目がさすがに悲鳴をあげ始めた。シャワーでも浴びようと立ち上がったとき、コツコツとドアをノックする音が聞こえた。なにしろこの部屋には安井しか来るはずはなかったので、もう用はないから帰りなさいと言ってやるつもりでドアを開けると、そこには思わぬ人物が立っていた。
「友引警部……」
「よお、先生。なかなか豪勢な部屋にご入院だな」
 ニヤリと笑った警部はBJの身体の横をすり抜けてずかずかと部屋に入ると、どっかりとソファに座って珍しそうに部屋を見回した。タバコに火をつけると、突っ立ったままのBJに向かって、まぁ座れというように手招きするのも憎らしい。
「ここは禁煙なんだがね」
 BJは精々皮肉っぽく言うと、仕方なく対面に座った。
「ちゃんと携帯灰皿も持ってるんだ。かたいこと言うな」
 警部はさらに左右のポケットから缶ビールを取り出すと、一本をBJに勧めた。長期戦の構えである。要らないと身振りで示して、BJが問うた。
「私に何か用かい。酒盛りの相手なら他所で探してくれ。それとも逮捕令状でも持ってきたかね。それに、そもそもどうやってここまで入ってきたんだ」
「令状なんぞ持ってやしない。ちょいと先生に聞きたいことがあって来ただけだ。それから、正義のおまわりさんはどこにだって現れるってことを覚えとけ」
 ニコニコと笑顔を見せるが、強面でそれをやられてもあまり愛嬌はない。
 BJが仏頂面で黙っていると、いまこの病院は警察の監視下に置かれているようなものだぞ、と語り出した。
「なにしろ重大事件の被疑者がいるんだからな。俺もずっと詰めていたんだが、安井事務局長の姿がちょいちょい見えなくなるのが妙だと思ってな。それとなく院内で聞き込みをしてみたと思え。そしたら、意外な情報が耳に入ってきた。昨夜、誰かさんがドクターヘリで派手な登場をしたっていうじゃないか」
 友引警部は愉快そうに笑った。
「だが、その後誰もおまえの姿を見ていない。とすれば、おまえがいるのはこの部屋しかない。安井はおまえの世話をしているんだとピンときてな。確かめに来たってわけだ。大当たりだったな」
 と、得意満面な顔をしていたが、BJが面白くもなさそうな顔をして黙ったままなので、ゴホンと咳払いをすると、ふと真顔になった。
「この仕事、請けるのか」
「何の話だ」
 BJはしらばっくれる。
「とぼけなくてもいい。安井事務局長から依頼された仕事のことさ。富士見商店街無差別連続殺傷事件の被疑者の手術をするのか、って聞いてるんだ」
 BJと友引警部の視線がぶつかり合った。お互いの腹の底を探り合う。
 ややあって、BJはひとつ大きく息を吐いて、緊張を解いた。友引警部の眼差しの中には真摯な色があった。その目は、正直に話してくれ、と言っている。
「請けるもなにも、私はまだ正式に依頼をされていないんだ」
 友引警部はソファに背を預けると、思案顔で腕組みをした。
「つまり、ここの医者のメンツがあるってことか」
「そういうことだな。なにしろ私はモグリなんでね」
「だが、ここの医者にあの被疑者が治せるのか?メンツだの何だのと言っている場合じゃないだろう」
「私に言われても」
 BJは肩をすくめてみせた。
 う~ん、と呻って、友引警部は眉根を寄せた。チラリとBJを見た眼差しがいかにももの言いたげだ。BJは小さく首を傾げて促した。正直に話せよ、警部。
「この事件には裏があるんだ」
 友引警部はビールを一口あおると、身を乗り出して小声で語り始めた。 
「この事件、単なる通り魔事件なんかじゃない。あの姓名不詳の被疑者は大沢健吉を狙ったんだ。そう、二番目に刺されて死んだ被害者だよ。大沢の爺さん、好々爺の顔をしているが、とんだ食わせ者でな。政財界の大物や名士の弱みを握って強請るのが商売なんだ。金品を巻き上げることもあるが、その気になれば日本の政治や経済界だって自由に動かすことができるほどの力を持っている。おそらく警察内部にも奴に脅されていた幹部はいたはずだ。これまで俺たちが大沢を捜査しようとすると、どこからともなくストップがかかったからな。まあとにかく、大沢健吉というのはそういう化け物みたいな男だったと思ってくれ」
 BJはテーブルに置かれた警部のタバコを一本盗んで火をつけた。
「それで?」
「それくらいの男だから、恨みだって盛大に買っていたはずだ。強請られていた誰かが大沢を抹殺しようとしても不思議じゃないんだ。大沢もそれはわかっていて、滅多に外出することはなかったし、内でも外でも身辺にはいつもボディガードを侍らせていた。最初に腹を刺されて死んだ山本則夫もそういう連中のひとりだよ。山本が運転していた車は防弾ガラス仕様なんだぜ。それぐらい用心していたのに、散髪屋から出て車に乗ろうとするわずか数メートルの間で殺られちまったってわけだ。ちなみに、あの散髪屋の隠居というのは大沢の幼馴染でな。散髪している間に昔話をするのが大沢の楽しみだったんだとさ」
「そんな話が、テレビでも新聞でもまったく報じられないのはどういうわけなんだ」
「大沢に強請られていた各界の大物たちが、躍起になってあちこちから抑えてるんだよ。マスコミが大沢にスポットライトを当ててみろ。自分たちのいろんな秘密やスキャンダルが明るみに出るおそれがある。バレたら困る連中がいっぱいいるってことだ」
「だが、警察はちゃんと大沢健吉殺人事件として捜査しているんだろう?」
 警部は大きなため息をついた。
「それがそうじゃないから弱ってるんだよ。今回も上から圧力がかかってる。被害者のほうをつついちゃいけないことになった。被害者のプライバシーを守るとかなんとか、もっともらしい理由をつけてな。だから、このままだと、ちょいと頭がいかれた男がやらかした通り魔事件として処理されてしまいそうなんだ。大沢はただのかわいそうな被害者の一人ってわけだ」
 BJはフンと鼻で嘲笑った。
「それで?警部はどうしたいんだ?」
「あの被疑者を事情聴取して、大沢との関係を探り出したい」
「大沢をつついちゃいけないんだろう?」
「ああ、大沢を直接ほじくり返すことはできないよ。だが、被疑者から殺人の動機を聴取することは、真っ当な捜査手順だぜ。俺は、あの被疑者は誰かから大沢殺しを依頼されたのだと考えている。だから洗いざらいしゃべってもらいたいんだよ。奴の証言は取っ掛かりになるんだ。奴を雇った奴がわかれば、そいつが何故大沢を殺そうとしたかを探れる。大沢に辿り着けるんだよ。だが、俺の目的は大沢の悪事を暴くだけじゃないぞ。さらにその上の巨悪を暴きたいんだ。大沢が強請っていた多くの相手とその内容を暴きたいんだ。きっとこの国を揺るがすくらいの秘密がゾロゾロ出てくるに違いない。甘い汁を吸ってこの国のトップにふんぞり返っているような奴らをお白州に引っ張り出したい。俺はそういう捜査をしたいんだよ」
「あなたは正義のおまわりさんだったのですね」
「……なんだよ、その棒読みは。バカにしてるのか?笑いたきゃ笑えよ、畜生」
 気色ばんだ警部を面白そうに眺めてから、BJが言った。
「つまり、こういうことか。あの患者は誰か……『X』としよう、Xに大沢を殺すように依頼された。警部はまずこのXを探り出したい」
「そうだ」
「次にXを取り調べして、大沢にどんな弱みを握られていたのかを知りたい」
「そうだ」
「Xの証言が真実かどうか、次に大沢の側を捜査する」
「そこが肝心なところだ」
「大沢を調べれば、Xだけでなく多くの大物を強請っていたことも明るみに出るだろうと、そういうことなんだな?」
 警部はパチパチパチと拍手をして、そのとおりだ、と言った。ずいぶん時間がかかりそうな話だと、BJは思った。
「ひとつ、根本的なことを訊くが……」
「何だ」
「この事件が単なる無差別通り魔事件ではなくて、誰かに雇われたあの患者が意図的に大沢を殺そうとした事件だと、警部がそう考える根拠は何なんだ」
「あの被疑者がひき逃げされたという事実さ。あんな偶然があると思うか?大沢を殺して用済みになった被疑者の口を、今度はその雇い主……Xが、ふさごうとしたと考えるほうがよっぽど自然だろうよ」
 なるほどね、とBJは腕を組んだ。筋道は通っているように思われた。
「だからよぉ。あの被疑者が死んじまったら元も子もないんだよ。すべてが闇に葬り去られてしまうんだ。大沢に強請られていた奴らが大喜びするだけなんだ。そんなことが許されていいと思うか?あの被疑者の供述は巨悪を暴く突破口になるんだ。どうしても奴の供述が欲しい。だから俺は……、おまえに奴の手術をしてもらいたいんだよ」
 友引警部に真っ直ぐに見つめられて、BJは思わず目を伏せた。警部はこの最後の一言が言いたくてわざわざここまで来たのだろう。自分の腕を信用してくれる警部の気持ちはわかったが、しかし、いまはそれにこたえられる状況ではなかった。BJはまだ正式に手術の依頼をされていなかったし、実際に患者を診てもいない。あの患者がはたして供述できるまでに回復するかどうかはBJにもわからなかったのだから。
 警部はしばらくBJを見つめていたが、彼の心中を察したのだろう、ボリボリと頭を掻くと言った。
「俺も焼きが回ったもんだ。モグリの医者に向かって、手術をしてくれなんて、なぁ……」
「警部……」
「いいって。無茶を言ってすまなかったな。おまえがここにいるとわかって、ちょっと話をしたくなっただけだ。……さて、と。正義のおまわりさんはそろそろ帰るとするか」
 警部は両膝をペシリと叩いてソファから立ち上がったが、ああ、そうだ、と思い出したように言った。
「おまえも身辺には気を付けるんだぞ。あの被疑者が助かることを望んでいない奴らにとって、おまえは邪魔な存在だ。もしもおまえに出番が回ってくるようなことがあれば、どんな手に出てくるかわからんからな」
 それだけ言うと、友引警部はひらひらと手を振りながら、じゃあな、と部屋を出ていった。テーブルの上にタバコとビールだけが残った。


 火曜日の朝。集中治療室は緊迫の度合いを増していた。頸椎の損傷により横隔膜が機能しなくなり呼吸麻痺が起こったからである。それまで辛うじて自発呼吸ができていた患者は、気管を切開され人工呼吸器をつけられた。容態は明らかに悪化していた。
 白拍子は自分の不運を呪った。何故この患者はここに運ばれてきてしまったのだ。何故蘇生措置を施したりしたのだ。何故この患者は蘇生したのだ。何故自分にこの役割が回ってきてしまったのだ。何故。何故。何故……。白拍子は椅子に座って項垂れた。

「いかがでしょうか。本日あたり、良い知らせをいただけるものと思っているのですが……」
 安井は朝からあちこちに電話を掛けまくっていた。一分一秒でも早く“次世代高度先端医療構想”中核病院の指定が欲しかった。
「そうですか。内定したというようなお話だけでも結構なのですが、……はあ、さようでございますか。ではあともう一押しのお力添えをですね、なにとぞよろしくお願い申し上げます。……はい、どうも失礼いたしました」
 安井も必死になっていた。

 患者がそのまま小康状態を保ったのはまさに奇跡的な出来事だった。白拍子はその奇跡に助けられた。次にくるであろう悲劇的事態の予感におびえながら、彼は一時も患者の傍を離れなかった。この患者は誰にも渡さない!

 昼過ぎ、ある三流スポーツ新聞が一つの短い記事をネット上にアップした。
「独占スクープ!『富士見商店街無差別連続殺傷事件』の容疑者をひき逃げした車両からDNA検出!
この車両は事件当日の午前中に都内のパチンコ店の駐車場から盗まれ、翌日に多摩川河川敷で発見されたが、車内に捨てられていたガムの一つに付着していた唾液から検出されたDNA型が、『富士見商店街無差別連続殺傷事件』の容疑者のDNAと一致したことがわかった」

 事件の続報に飢えていたワイドショーは、軒並みこのニュースに食いついた。
「どういうこと?犯人は自分で自分をはねたってこと?」とコメンテーターの女芸人が言う。
「アホかおまえは。犯人は車とぶつかった瞬間にガムを車に投げ込んだんや」と先輩芸人が言う。
「何のために?」と総ツッコミが入る。
「真面目に話しません?」と司会者。
「つまり、この車を盗んだのはあの容疑者だったということでしょう」と経済評論家。
「自分が盗んだ車にはねられた?じゃあ、誰が運転していたんでしょう」と司会者。
「あの被疑者と誰かもう一人が車を盗んだ。ガムはそのときに捨てたものでしょう。その後、あの被疑者は富士見商店街で事件を起こし、もう一人が運転する車で逃げようとした。ところが、何かの手違いで、その車にはねられてしまった。仲間はそのまま逃げてしまったと、そういうことかもしれませんね」と元弁護士。
「では、この事件は周到に計画されたものだったということになりますね」と、司会者が弾んだ声で言った。

 午後10時。安井はBJにコーヒーを運んだ。
「顔色がすぐれないね。良い知らせは来なかったかい」
 BJに言われて、安井は、はい、と肩を落とした。
「患者は低め安定でなんとか持ちこたえている感じだな。だが、このままだと、患者より先に白拍子がぶっ倒れるぞ。誰か代わってやれる医者はいないのかい」
「それが、白拍子先生ご自身が、交代を望んでおられないのです。プライドをかけてやっておられるようでして……」
「ふうん。プライドねえ……」
 BJは熱いコーヒーを一口飲むと、言った。
「たぶん、明日は忙しくなるぜ。“次世代高度先端医療構想”のほうじゃないかもしれないけどね」
 安井は、はっとしたようにBJを見た。
「そ、そうですか。そういう……ところまで来ているのですね」
「ああ。勝負は明日だ」
 BJはきっぱりと宣言した。
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