FC2ブログ

「顔のない男」 3

 安井が蹌踉とした足取りで部屋から出ていった後、BJはこっそりと部屋を出た。エレベーターは使わずに、誰にも見られないように注意しながら階段で1階まで降りる。階段脇にズラリと置かれた自動販売機で“おしるこ”を選んだ。商品が出てくるガタンという音が誰もいないエントランスホールに響いた。近くの椅子に腰かけてゆっくりと飲む。これくらいの自由は許されてもいいだろう。缶を捨てると、また階段を使って5階まで上がった。
 5階から上は病棟である。消灯時間も過ぎ、廊下はほの暗く人影もない。しばらくそこに佇んでいると、そろそろ寝入った患者のいびきや寝言に混じって、苦し気な唸り声や、間断なく誰かの名前を呼び続ける単調な声も聞こえてくる。
 BJは子どもの頃のことを思い出していた。不発弾の爆発に巻き込まれて母を亡くし、自分はなんとか九死に一生を得たものの身体は動かず、手足にスリッパをはいて朝から晩まで病院の廊下を這いずり回っていた頃のことを。消灯時間を過ぎてからも看護婦の目を盗んでは薄暗い廊下を這っていた。そういうとき、各病室からはやはりこんな声が聞こえてきていた。
 どんなに時代が移っても、どんなに医療が発達しても、人間は病気やケガに苦しむ。医者はなんのためにあるのかと思うこともある。だが、それでも……と、BJは思う。人にはきっと生きている意味がある。自分があの事故から生還できたのだって、そこにはきっと何かの意味がある。自分が外科医になったことにも、きっと意味はあるはずだ。
 BJは一つの病室のドアを開けた。人工呼吸器をつけられた患者がひとり眠っていた。暗い室内にバイタルモニターの画面だけが明るい。BJは規則正しい呼吸と心拍を確かめ、しばらく様子を診てから、また静かに階段を上っていった。

 自室のドアを開けたとき、BJは中に人の気配を感じた。安井が戻ってきたか、それともまた友引警部が来たか……。
 しかし、そこにいたのは長い銀髪の男だった。まるで自分の部屋にいるかのようにくつろいで、ゆったりとコーヒーを飲みながらモニターを見ている。
「ドクター・キリコ!」
「久しぶりだな、BJ。なかなかいい部屋が取れたじゃないか。夜景は綺麗だし、ルームサービスのコーヒーも美味い」
 昨夜の警部と同じようなことを言う。BJは、自分がここにいることを日本国民全員が知っているんじゃないかという気がしてきた。
「ここはツインルームじゃないぜ。どうやってここに入ってきた」
「ドアを開けて」
「どうやってここまで来たのか聞いてるんだ」
「右足と左足を交互に前に出して」
 どうやら真面目に答える気はないようだ。
「病院の周りにはマスコミと警察がいっぱいいたろう」
「そんなことか。蛇の道は蛇さ。死神はどこからだって忍び込んでくる」
 Déjà Vu. どうやら、正義のおまわりさんと死神は似たようなものらしい。相手にするのも面倒くさい。BJはソファに座って尋ねた。
「で?オレに何か用なのか」
「おまえ、この仕事請けるのか」
 ブラボー。台本どおりだ。次はタバコと缶ビールが出てくるぞと思ったが、それはないようだ。
「それがおまえと何の関係がある」
「おまえ次第で俺の仕事が増えるかもしれない、と言ったら?」
「なんだって!?」
 BJは思わず腰を浮かした。キリコはコーヒーカップを二つ持ってソファに移ってきた。一つをBJの前に置くと、対面に座って悠然と足を組んだ。
 BJは食ってかかった。
「あの患者を殺すつもりなのか!」
「『安楽死』と言え。何度言えばわかる」
「永遠にわかるつもりなどない!おまえのやっていることは人殺しだ。おまえ医者なんだろ。ちゃんと医者の仕事をしろ」
 キリコのまとっている「気」が剣呑なものになった。モニターを指差しながら言う。
「おまえ、あの患者を見ていて何も感じないのか。おまえ、それでも医者か。彼は苦痛しか感じていないぞ。苦痛以外、何もない世界にいるんだぞ。苦しんで苦しんで、やっと待ち焦がれた死が訪れようとすると、そのたびに無理矢理この世に引き戻される。彼が苦しむ時間は更に長引く。そうしているのは医者だ。これがおまえの言う医者の仕事か?」
「医者は患者を治そうとしているんだ。苦しませようとしてやってるんじゃない。それに、おまえはあの患者が死にたがっていると言うが、オレの目にはあの患者は生きたがっているように見える。おまえの勝手な思い込みで患者を殺すのは許さんぞ」
「それこそがおまえの思い上がりじゃないのか。生き物は死ぬときには自然に死ぬもんだ。あの患者が死ぬべきときは『いま』だ。それを無理矢理生かす権利がおまえにあるというのか。おまえは神か」
「ただの外科医だ。だがオレが神じゃないように、おまえだって死神じゃない。死ぬべきときを決めるのはおまえじゃない。患者を死なせる権利なんか、おまえにはないんだ」
 BJとキリコはにらみ合った。
 これまで幾度となく繰り返されてきた会話だった。いい加減飽き飽きするが、それでもバッタリ顔を合わせてしまえば、二人の間にはこの会話しかない。お互いの仕事の重みもわかろうとしないではないが、かと言っておのれの信念を譲る気もさらさらない。一人の患者を間に挟んで、自分こそが患者を救うのだと、幾度となく生と死の代理戦争を繰り広げてきた。
 だが……、とBJはふと違和感を覚えた。これまで、いつだって突っかかっていくのはBJの方だった。普通ならキリコはBJを避けるはずなのだ。BJが手術をする前に、あるいは手術を終わらせてからでも、キリコにはいつだって人知れず仕事を遂行するチャンスはあるのだから。なにもわざわざ文句を言われるのを承知でBJの前に姿を現す必要はないのだ。
 BJは一度だけこんなケースがあったことを思い出した。55年間眠り続けている患者の扱いに困った病院が、BJとキリコの両方に声を掛けたときのことだ。あのときキリコはBJを待っていた。そうだ、あのときキリコはどう思っていたのだったか。患者を死なせてよいものかどうか迷っていたのではなかったか。
 きょうキリコがここに来た理由。それもまた……。
 BJの脳裏にひとつの疑問が浮かんだ。
「おい、ちょっと待て、キリコ。おまえに仕事を依頼したのはいったい誰だ」
 キリコは片方の口角をちょっと上げてみせた。
「クライアントをそう簡単に漏らすと思うか。それよりも、まず俺がおまえに問う。おまえなら、あの患者を救ってやれるのか。その自信はあるのか」
 死神の化身と呼ばれる男の色素の薄い目が、ひたとBJを見据えた。さっきまでの言葉の応酬はただの竹刀での稽古試合だった。この視線を外さずにいることができるか、この瞬間こそが真剣勝負だった。患者が生と死の間で長いあいだ宙ぶらりんになっている。キリコが死なせて救うのか、それともBJが生かして救うのか。  
 BJは自分でも不思議に思うほど冷静にキリコの視線を受け止められた。大丈夫だ、オレはこの目をそらさずにいることができている。そう気付くと、自分自身にカチリとスイッチが入ったような気がした。
「オレなら救える。自信も覚悟もある」
 という言葉が自然に口をついて出た。
 キリコは言葉の真偽を確かめるようになおもしばらくBJの目を見つめていたが、やがて大きく息をついた。身体から死神の「気」がスッと消えた。学ばない奴だと言わんばかりの表情で、両手を横に広げて肩をすくめてみせる。それから、上着の内ポケットから一通の封書を取り出すと、テーブルの上を滑らせて寄越した。
 白い封筒の表にはキリコの住所と名前、上部に赤く線が引かれ「速達」の文字がある。裏返すと、差出人が「G県T郡U村××× 中里千代」とある。中には便箋が一枚入っていた。BJが、読んでも?と目で問うと、キリコは黙って顎をしゃくった。

「キリコ先生。
 先日、富士見商店街で通り魔事件を起こしたのは、私の孫の中里茂です。あんなことをしでかしてしまった孫はもう生きているべきではありません。どうか殺してやってください。お願いします。 中里千代」

「お祖母さんが、孫を……?」
 BJは信じられない思いでつぶやいた。昨夜の友引警部の話から、謎の人物Xがあの患者を再び殺そうと試みる可能性はあると思っていた。だが、まさか祖母が孫を殺してくれとキリコに依頼してくるとは……。
「ああ。なかなか優しいおばあちゃんだと思わないか?」
「ふざけるな!おまえはこんな依頼を請けようとしていたのか。見損なったぞ、キリコ!」
 思わずテーブル越しにキリコの胸倉を掴んだBJの腕を、キリコは難なく払いのけた。
「腕っぷしなら俺のほうが強い。落ち着いて俺の話を聞け、BJ」
「言い訳か」
「いいや、なかなか興味深い話だぜ。いい子にしてたら話してやる。知っておいたほうがいいと思うがな」
 キリコは乱れたチーフタイを直しながらニヤリと笑った。畜生、煮ても焼いても食えない奴だ。BJはドサリとソファに腰をおろした。
「もったいぶらずにさっさと話せ。聞いてやる」

 キリコはすっかり冷めたコーヒーを一口飲むと語り始めた。
「俺はおまえと違って、ほいほいと依頼を請けるようなことはしない。なにしろ神聖な仕事をしているんだ、間違いがあってはならないからな」
 カチンとくることを言われたが、ここは黙っておいた。
「その速達は今朝一番に届いたものだ。消印から、昨日の午前中にG県M市の中央郵便局に持ち込まれたものとわかる。で、俺はそこに書かれている差出人の住所に行ってみた」
「おまえさんの仕事はヤバいからな。実際に依頼人を確認したかったというわけだ。で、会えたのか」
「水の底だった」
「……水の底?」
「ああ。G県T郡U村は8年も前にダムの底に沈んでいたよ。道理でカーナビが妙なところを示していたはずだ」
 BJは手にしている手紙が途端に気味の悪いものに思えてきた。
「それで、最寄りの交番へ行って話を聞いた。U村の全住人は10年くらい前には他所への移住が終わっていたそうだ。中里千代という女性のことも調べてくれた。U村に孫の茂と二人で住んでいたのは事実だった。茂の両親はいないらしい。茂は地元の中学を卒業するとすぐに東京へ出ていったので、その後は一人暮らしをしていた。そのうちにダムができるという話が決まって、千代ばあちゃんはそれを機に隣の市の施設に入ったのだそうだ」
 交番でよく不審者扱いされなかったな、と言おうと思ったがやめておいた。
「それで隣の市まで行ったのか」
「行ったさ。だが、尋ね当てた施設というのが、グループホームだった」
「……ということは……」
「ああ。千代ばあちゃんは認知症だった。職員が連れてきてくれたばあちゃんは、チワワみたいに小さくて可愛いばあちゃんだったぜ。おいくつですかと尋ねたら、恥ずかしそうに、20歳になります、と答えたよ。職員の話では、もう自分の名前もあやふやらしい。孫がいるなんて言っても、おとぎ話だと思うだろうな」
 BJは手紙を見た。
「じゃあ、誰がこんな手紙を……」
「さあな。そこまではわからんよ。とにかく、俺がきょう一日駆けずり回ってわかったことは、その手紙は千代ばあちゃんが書いたものではなくて、どんなことをしてでもあの患者を亡き者にしたい誰かが書いたということだけだ」
「あの患者が『中里茂』という男かどうかも、本当のところはわからないんだな。日本国中、誰の名前を騙ってもよかったわけだ」
「いや、あの患者は中里茂だ」
「何故わかる?」
「千代ばあちゃんは福耳だった。モニターで見る限り、あの患者も福耳だ」
「おまえさん、もう一回中学校で遺伝の勉強からやり直せ。祖母が福耳でも孫が福耳とは限らん」
「いや、中里茂は福耳なんだ」
 キリコは大事そうにポケットから一枚の写真を取り出した。
「俺の彼女の写真だ。隣の中学生が邪魔なんだが……」
 BJはキリコの手から写真をひったくった。そんなものを持ってるならさっさと見せろ!
 写真には60代くらいの女性と学生服を着た男の子が写っていた。女性は屈託のない笑顔を浮かべて正面を向き、男の子は照れたような顔を少し女性の方へ向けている。顔の輪郭や目鼻立ちがよく似ていた。写真の裏には「茂、中学校卒業式」と書かれてある。
「千代ばあさんと茂なんだな。なるほど茂も福耳だが……」
 BJは写真を持ってモニターの前に移動した。キリコもついてきた。上から俯瞰する画面を患者の頭部にズームアップする。患者の左耳は顔面を覆った大きなガーゼに隠れてよく見えない。だが、右耳は写真の中学生の耳の形によく似ていた。
「耳全体の輪郭と珠間切痕の深さがそっくりだろう」と、隣に座ったキリコが指で画面を指し示しながら言う。
「ああ。おまえ、さっきこれを確かめていたんだな。福耳だの何だのと揶揄いやがって」
「なにしろ彼女から100万円で買い取った大事な写真だからな。有効に使わないと」
「100万円?」
「ああ、あの速達便には、額面100万円の普通為替が同封されていたんだ。どこのどいつか知らないが、そのふざけた野郎は100万円というはした金で俺に人殺しをさせるつもりだったということさ」
 BJはキリコの顔を盗み見た。淡々と話しているが、相当怒っていることがわかる。神聖だと自負している自分の仕事を、単なる人殺しと見なされたのだから、キリコが怒るのも無理はない。100万円、ありがたく貰っておけばよかったじゃないか、と揶揄ったら、手が汚れる、と潔癖なところを見せた。
「それで、大事な年上の彼女にプレゼントしたわけか」
「差出人に返しただけだ」
 なるほど、表面上はそういうことになっている。BJはクスリと笑った。
 しばらく二人並んでモニターを見る。
「もう一つ訊いていいか」とBJが言った。確かめたいことがあった。
「何だ」
「おまえは千代ばあさんに100万円をプレゼントした時点で、こんな仕事はしないと決めていたんだよな。だが、さっきおまえはこう言った。『おまえ次第で俺の仕事が増えるかもしれない』と。報酬なしでもおまえは仕事をするつもりだったのか」
 キリコは、答える義理はないんだが、と、ちょっと考えていたが、やがて静かな声でこう言った。
「俺はプロだ。報酬のない仕事なんてそもそも仕事とは言わない。請けるわけがなかろう。だが、おまえを待っている間、この映像を見ていて気が変わったんだ。たとえどんな凶悪犯であっても、人間が人為的に無理矢理こんな状態に長く置かれるなんて、断じてあってはならないことだ。俺は医者としてそう信じる。だから、おまえの返答次第では、と思ったよ。もしもおまえが匙を投げていたら……とな。だが、おまえは、救えると言った。自信も覚悟もあると言った。そうだな?」
「ああ」
「だったら……」
 キリコは立ち上がってコートを羽織った。
「It’s your turn.」
 それだけ言うと、キリコは静かに部屋を出ていった。
 死神の化身はオレよりほんのちょっとだけ優しいのかもしれないと、BJは思った。

 水曜日になった。

「なんですって?!」
 午前10時。きょうも朝早くからあちこちに電話をかけていた安井が、悲痛な声を挙げた。はい、はい、と話を聞いていたが、やがて思いつめた表情で受話器を置いた。
 電話の相手はこう言った。
「“次世代高度先端医療構想”中核機関の指定は日延べになりました。選考委員の一人から、東西大学病院の例の患者の容態の推移を見てから決定しても遅くはないという意見が出て、委員全員がそれに同意されたのです」
 安井は拳でデスクを叩いた。ライバル病院の差し金であることは明らかだった。くそ!あれだけ金をばらまいて、委員はほぼ手中に収めたと思っていたのに、この期に及んで他の病院が更なる大金をばらまいたか!
 安井は部屋を飛び出すと集中治療室へ走った。患者!あの患者さえ助かれば!

 その集中治療室では白拍子が立ち尽くしていた。怖れていた事態が起こりつつあった。患者の血圧が低下し始めたのだ。やっと80台をキープしていたのが今朝は70台になった。いまも徐々に下がりつつある。もはや姑息的手段ではどうしようもなく、頸椎の手術をするほかはないが、この状態でそんな大手術などできるはずもなかった。もう打つ手がない……。
「白拍子先生!患者の容態は!治りそうですか?」
 息せき切った安井の問いかけに、白拍子は力なく首を振った。

 安井は意を決した。そのまま院長室に急行し、ノックをするのももどかしくドアを開ける。
「院長、お話があります」
 爪を切っていた池端は安井の顔をジロリと見ると、良い話ではなさそうだな、と言った。はい、と答えて、安井は先ほどの電話の内容を伝えた。
「ふむ。どこも必死で指定を勝ち取ろうとしているからな。あの患者もきょう一日はもつまい」
「はい、白拍子先生ももうどうしようもないと考えておられるようでした。院長……」
 安井は大きく息を吸い込んだ。
「もう他に打つ手はありません。BJに依頼しましょう」
 池端はフンと鼻で笑った。
「1千万をドブに捨てるようなものだぞ」
「いまから選考委員を買収するなら、その数倍の金が必要です。それにおそらくそんな時間は残されていないでしょう。イチかバチかの賭けです。患者が少しでも持ち直せば、それを大々的にマスコミに発表します。そうすれば選考委員も考え直すかもしれません。もちろんBJの名前など絶対に出しません。院長、ご決断ください」
 安井は頭を下げた。
 池端は両手の指先をつき合わせてしばらく思案した。
「ふうむ。他に手はないようだな。1千万が無駄金になると思うが、事務局がそれでもいいと言うなら、おまえの責任でやってみるんだな」
「ありがとうございます!では早速そのように伝え……」
「BJを大会議室に呼べ。どんなヤブ医者だか、一度見ておきたい。白拍子君も立ち会うように言ってくれ。言いたいこともあるだろうからな」
 この危急のときにこの男はまたくだらないことを、と安井は思ったが、ここで逆らっても時間の無駄になるだけだ。ご指示のとおりに、と言い捨てて、院長室を飛び出した。

 午前11時。
 BJは安井に伴われて大会議室に赴いた。日曜日に記者会見が行われて150人からの人数が詰めかけていた部屋だ。いまは楕円形に綺麗にテーブルが並べられている。正面の壁に仰々しく東西大学病院のエンブレムが飾られ、その下には池端病院長がふんぞり返って座っていた。その隣には白拍子が目ばかりギラギラさせて座っている。げっそりと頬がこけ、体は一回りも二回りも小さくなったようだった。
 BJを院長の真向かい、いちばん下座に座らせると、安井は院長の隣まで行って座った。座る場所も池端の指示どおりにした。まるで下座の者を諮問するような配置で、どこまでも自分の権威を誇示したい池端の演出には嫌気がさしたが、反対を唱えるのも面倒だった。そんな待遇に、当のBJがどこ吹く風という顔をしているのが救いだった。
 時間を惜しむかのように安井が口を開く。
「こちらが池端病院長、あちらが白拍子外科部長です。この度、BJ先生に手術を依頼することになりましたので、お引き合わせいたします」
 安井だけがペコリとお辞儀をした。次に何をどう言えばいいのだろうかと考えていると、おもむろに池端が言った。
「君のことは噂に聞いて知っている。医師免許も持っていないくせに、法外な報酬で手術を請け負っているクズのような男だそうだな。本来、名誉ある東西大学病院は君のような犯罪者が出入りできるような場所ではない。すぐにでも追い出したいところだが、この安井事務局長がわざわざ君を呼んだと聞いた。甚だ不本意ながら、彼の顔を立てるために、手術をひとつやってもらわねばならんことになった。君の失敗例をひとつ増やすだけのことだが、それでも君はやるのかね」
 安井は隣で握り拳を固めていた。これだけのお膳立てを整えてやった自分の苦労も知らずに、この男ときたらすべてをぶち壊しかねないことを平気で言う。
「BJ先生は手術をしてくださいます!そうですね、BJ先生。1千万円で手術をしてくださるお約束でしたよね」
 と、安井が取り繕った。
「3千万円いただきましょう」
 と、BJが言った。
「……はい?いま、3千万円とおっしゃいましたか?……いや、そんな話は、私、一言も……」
 安井は慌てるが、BJは澄ましたものだ。
「あれから3日もたってるんですよ、安井さん。患者の状態は更に悪化している。本当ならもっと上乗せしたいところですよ」
 BJがそう言ったとき、白拍子が狂ったように笑い出した。安井と池端がギョッとして白拍子を見た。白拍子は腹を抱え、涙まで流して大笑いしている。
「あっはっは。読めたぞ、BJ。あんた、治せる自信がないんだろう。だから、値を吊り上げて、こっちが依頼を取り下げるのを待ってるんだ。手術しなければ失敗もしないわけだからな。あっはっは。いかにも下司な医者が考えつきそうなことだな」
 白拍子はくつくつと笑い続けた。先ほど安井からBJに依頼するという話を聞かされたときには、目の前が暗くなるほどの屈辱を覚えたが、いまは愉快でならなかった。BJにもあの患者は治せないのだ。自分はBJに劣ってなどいないのだ!
「そういうことか。それなら、話は終わりだ。出て行ってもらおうか」と池端が言った。
「とっとと帰れ!」と白拍子が嘲笑いながら言った。
 安井は、3千万、3千万と繰り返しながら泣き出しそうな顔をしている。
 BJは、やれやれというように首を振った。
「そうですか。それではこの話はなかったということで、私は帰らせていただきますよ。よろしいんですね」
「ああ、帰れ帰れ」と池端と白拍子が声を合わせた。
「では、これで失礼する。コソコソ隠れていることにも飽きたのでね、堂々と正門から帰らせていただきますぜ」
 BJが立ち上がってドアへ向かうと、安井がハッとしたような顔をした。
「いや!ちょっとお待ちください、BJ先生。正門から出られるのは困ります。後ほどお送りいたしますので……」と、慌てて追いすがる。
「余計なお世話です。そんなことまで指図されるいわれはない。私の好きなようにさせてもらう。マスコミ連中がいる中を突っ切って帰りますよ」
「やめてください!払います!3千万円払いますから、今すぐ手術してください!」
 安井が悲鳴を挙げてBJに縋りついた。

 とんだ茶番だ、と池端が苦々しく言って、足音も荒く部屋を出ていった。新しい契約書を作ります、と安井が言って、院長の後を追うように部屋を飛び出していった。後にはBJと白拍子が残された。
「さて、手術の手順を話しておきたいんだがね」
 BJが白拍子のところまで行って話しかけると、白拍子はBJを睨みつけた。
「そんなもの、聞く必要はない。あんたがやるんだろう。私は関係ない」
「関係ない?あんた、主治医だろう」
「お払い箱になった『元』主治医だ。あとは、あんたが勝手に切り刻んでどうとでもすればいいさ。私は知らん……」
 白拍子の頬がピシリと鳴った。BJは、体勢を崩して椅子から転げ落ちた白拍子の胸倉を掴んで引き起こした。
「今度は拳で殴ってやろうか!いいか、よく聞け。あの患者はおまえさんの患者だ。私は手術の執刀をするだけだ。患者の命に責任を持つのはおまえさんなんだぜ!」
 白拍子は、事の成り行きについていけない様子でキョトキョトと視線を泳がせた。
「な、何を……。だって……」
「だって、何だ」
「だって、私は、あの患者を救うことができなかった……。何をやっても患者は回復しなかった……。もう、駄目なんだ……」
 白拍子は床にペタリと座り込んだ。虚ろな目に涙が盛り上がった。
 BJは白拍子の前にしゃがみこんだ。白拍子の顔を見つめながら静かに語りかける。
「まだ駄目じゃないんだ。おまえさん、これまで必死に頑張ってきたよな。私でもあんなには出来なかったかもしれない。あれだけの努力を、ここで全部放り出してしまうのか?患者の命を諦めてしまうのか?まだ手はあるんだ。しっかりしろ、白拍子」
「頑張った?……私が?」
「ああ、そうだよ。私はずっとモニターで見ていたんだ。おまえさんは何一つ間違った処置はしなかったし、でき得る限りの手をうっていたぜ。よく頑張ったじゃないか」
 大きく見開いた白拍子の目から、ポロリと涙がこぼれた。思えば、誰もそんな言葉をかけてくれた人間はいなかった。ただ「もうしばらく生かせ。できるだろう?」とばかり言われ続けて、ジレンマに圧し潰されてきた。それを、いま、あれだけ敵視してきたモグリの医者だけが、自分を認めて労ってくれている……。
 声もなく涙を流し続ける白拍子の肩をポンとひとつ叩いて、BJは立ち上がった。ポケットを探ってタバコを取り出し、窓から外を眺めながら一服つける。正門の前にたむろするマスコミの姿が見えた。
「本当に、まだ手はあるんですか。あんな状態なのに?」
 鼻をグズグズ言わせながら白拍子が尋ねた。
「ある。何があってもあの患者は死なせない。だが、そのためにはおまえさんの力が必要なんだ。どうしてもな」
 しばらくすると、背後で、白拍子が立ち上がる気配がした。
「やれるな、白拍子先生」とBJが問うと、
「はい」と白拍子が答えた。

 安井が大急ぎでこしらえた契約書を持って帰ってきた。報酬は3千万円。その後に但し書きがあって、BJが関与することを当院のスタッフ及びマスコミ、警察に知られないようにすること、とある。よほどさっきの脅しがこたえたとみえる。BJはクスリと笑った。
「報酬は、手術が終わり次第、現金でいただく。すぐに揃えてくださいよ。それから、この但し書きについてだが、もちろん、私の方から大っぴらにするつもりなんかないよ。でも、スタッフやマスコミや警察に知られないように、私がいったいどうすればいいんだい?あんたがお膳立てをしてくれなくちゃ、私は何もできないよ」
 BJがそう言うと、安井が、それもそうですね、と言った。慌てていて、そこまで考えが至らなかったらしい。えーと、何をどうすれば……、と考え込んでしまった安井に、BJの方から要求を出した。
「まずは、ビデオカメラが設置されていない手術室を用意してもらいます。私が手術することを誰にも知られないためにね」
「あ、はい、それは必要なことですね。カメラが動いていたら、みんなに見られてしまう……」
 安井が手帳にメモをとる。
「次に、器械出しの助手が一人、どうしても必要です。絶対に秘密を漏らす心配のない看護師さんを手配してください。その人に手術室の準備もしてもらいましょう」
 安井は、一人とはいえスタッフに秘密が漏れることに難色を示したが、白拍子が「それは私の方で手配しましょう。手術部の宮代看護師長が適任と思います。口の堅い信頼のおける人物です」と言ったので決着した。
「よろしい。ではそういうことで。手術の開始は、たぶん午後7時頃になると思います。そのときに私が手術室に入るルートも確保しておいてくださいよ、事務局長さん」
「ルート……。そ、それは、いったいどうすれば……」
「手術室の辺りから人がいなくなればいいんじゃないかな。事務局長さんの権限で、なんとかうまくやってください。なにしろ私の存在を知られちゃいけないんだから……」
「わ、わかりました。なんとかします……」
 安井は自分で出した要求がことごとく自分に返ってくるので弱り果てたが、たとえどんな無理でもやらねばならない。しっかりメモを取ると、それでは、と言って脱兎のごとく部屋を出て行った。

「さてと。では、手術の段取りを説明しよう。もうあまり時間がない」
 BJは白拍子に向き直った。
「この手術はおまえさんがいないと始まらないんだ。いろいろと働いてもらうよ。早速だが、用意してもらいたいものがある。503号室に臨床的脳死状態になっている患者がいるな。カルテによれば、30代くらいのホームレスで近親者の存在は不明。仲間からは『山田さん』と呼ばれていた男だ。5日前にクモ膜下出血で倒れてここに運ばれてきている。脳死判定の後に彼の身体を使わせてもらう。速やかに1回目の脳死判定をやってくれ」
 白拍子が異を唱えた。
「移植手術を行うつもりですか。いや、それは、無駄でしょう。肝臓や心臓といった臓器を移植したところで、例の患者は頸椎から胸椎までが広範囲にやられているのです。そこをなんとかしないと、結局は死亡してしまいます。……まさか、脊椎を移植するなんて言うんじゃないでしょうね。絶対に無理ですよ、そんなこと!」
「まさか、そんなことは言わないよ。それに、移植する方向が逆だ。例の患者から山田さんの方へ移植するんだよ。もちろん移植するのは……、脳だ」
 白拍子の口が全開になった。
「われわれがこれから行うのは、脳移植術だよ。白拍子先生」
 BJがニヤリと笑ってみせた。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント