「顔のない男」 4

 それから、安井と白拍子は目まぐるしく、しかし人目を避けながら病院内を駆け回った。安井はスタッフやマスコミや警察に知られずにBJに手術をさせるために。白拍子はそれに加えて安井と院長にも知られずに脳死患者の身体を用いて脳移植術をするために。
 白拍子は12時30分と6時45分の2回、極秘裏に山田さんの脳死判定を行った。脳死判定は移植手術と無関係の医師2人によって行われなくてはならない決まりがある。しかし、これから行うのは脳移植。倫理的にも技術的にも、とても公に認められるような術式ではない。誰にも知られてはならない。だから、脳死判定をするのは白拍子一人しかいなかったのである。
 安井は銀行をいくつか回って3千万円をかき集めたり、カメラの設置されていない手術室を確保したり、7時前には手術部のスタッフを一室に集めて唐突に消火器の使い方講習などを始めたりして、なんとか手術室の周辺に無人の状態を作り出すことに成功した。緊急オペが入らなかったのが幸いだった。
 6時50分、手術室近辺にひと気がなくなったのを確認して、まず白拍子から極秘に指示を受けた宮代看護師長が山田さんを手術室に運び込んだ。すぐに再び人工呼吸器を接続する。山田さんの呼吸と心拍が再開した。
 次に、白拍子が例の患者を集中治療室から運んだ。「自分が一人で手術をする」という白拍子の言葉に首を傾げるスタッフもあったが、もはや手の打ちようがないから形だけ手術したことにするのだろうと解釈して、皆が手を引いた。
 あとは、BJを待つばかりとなった。
 しかしこのとき、ちょっとした事件が起こった。大会議室を出て手術室に向かうBJが、襲撃されたのだ。
 ひと気のない廊下を歩くBJに、物陰に隠れていた男が背後から忍び寄った。BJの首筋に何かを振り下ろすのと、廊下の向こうから誰かが「やめろッ!」と叫んだのが同時だった。BJは咄嗟に身をかわして、襲撃者の腕に手刀を打ち下ろした。その手から注射器がポロリと落ちた。腕を押さえてよろける襲撃者に、声の主が横から飛び掛かって床に抑え込んだ。
「暴行の現行犯で逮捕する!」
 襲撃者を後ろ手にしてガチャリと手錠をかけたのは、友引警部だった。
「ケガはないか、先生!」
「ないよ」
「なんだ、俺の助けなんか要らなかったみたいだな。こんなこともあろうかと、きょうは勝手にボディガードをやってたんだが。なかなか強いじゃないか」とニヤリと笑った。
「それほどでも」と答えて、BJは襲撃者の顔を覗き込んだ。
「知ってる奴か」
「ああ。麻酔科の河内という男だ。何回か集中治療室にやってきていた……」
「ここの医者だって?何か恨みを買うようなことでもしたのか、先生」
「そんな覚えはないね。会うのはいまが初めてだ」
「そりゃあ……いろいろと喋ってもらわなくちゃならないようだな。ほら、さっさと立て!」
 警部は同行していた制服警官に河内の身柄を引き渡した。それから、河内が落とした注射器をハンカチでくるむように注意深く拾い上げてポケットに収めた。
「ところで、どうやらやっと先生に出番が回ってきたようだな。安井が朝から必死の形相でバタバタしていたぜ。先生、頑張ってくれよな。……いや、俺は先生が手術するなんてこと全然知らないけどな」
 警部は、不器用なウィンクをしながらわざとらしく言ってみせた。闇の中に一筋の光明を見つけたような嬉しそうな顔をしている。
 そのまま、じゃあな、と立ち去りかけた警部をBJが引き止めた。
「警部、ちょっと頼みがあるんだが……」
「何だ」
 BJは警部の耳元で何ごとかを囁いた。

 7時。
 手術室の入り口に「手術中」のランプが灯った。
 安井は、スタッフに消火器の使い方を実習させておいて、廊下の端からそれを見届けた。とりあえずホッとした。いまあの中にはBJと白拍子と宮代と例の患者がいるはず。手術がうまくいきますようにと、心の中で手を合わせた。
 実際にはそのとき手術室には5人の人間がいた。BJ、白拍子、宮代、例の患者、そして山田さんだった。
 患者の血圧は既に55まで下がっている。心停止するまでもう間がないと思われた。
「これより脳移植術を開始します」
 BJの声に宮代が思わず「えッ!」と驚愕の声を漏らした。無理もない。この手術室でこれからどんな手術が行われるのかを、このとき初めて知ったのだ。
 しかし、白拍子がたった一人で脳死判定をしたことや、カメラのない手術室を準備させられたこと、そもそも噂にしか聞いたことのなかったBJが現れたことから、これから行われるのがふつうの臓器移植手術ではないことをおぼろげに察していたのだろう。やがて無言でコクンと頷いた。それを見てBJと白拍子が軽く礼をした。
「まずは患者二人に麻酔をかける。宮代さん、点滴をお願いします」
 はい、と答えて、宮代が鎮痛薬と鎮静薬の点滴を二人に施した。
 麻酔が効くのを待って、BJが言う。
「白拍子先生には山田さんの脳の摘出をお願いする。できるだけ後から繋ぎやすいように切っておいてくれよ。私はこっちの患者を受け持つ」
 わかりました、と白拍子は答えて大きく頭蓋骨を切開することから始めたが、さて、後から繋ぎやすいように脳を切り取るとは、いったい何をどうすればよいのか見当もつかなかった。なにしろ、そんなことはやったことがない。最初から宮代に汗をふいてもらい、BJの助言を受けながらの悪戦苦闘だった。
 BJはその間、顔のない患者の全身をくまなく調べていた。モニター越しにずっと見守っていた患者ではあったが、実際に手を触れるのは初めてである。ありとあらゆることを知っておきたかった。
 白拍子が1時間ほどかかってなんとか山田さんの脳を摘出したとき、顔のない患者を診ていたBJが言った。
「心停止だ」
 白拍子はハッと顔を上げた。
 心電図モニターの波形が最後にひとつ小さくピッと動き、それから永遠に平坦になった。
 土曜日からこっち、白拍子がいちばん多くの時間をともに過ごしてきた患者が、いま、死んだのだ。顔のない男はいったいどんな表情をして死んだのだろうと、白拍子は思った。せめて安らかな死に顔だったと思いたい……。
 思わず感傷的になった白拍子に、BJが言う。
「さて、そっちの準備は出来たかい。3分でそっちに移すぞ」
「さ、3分!?」
「酸素の供給がなくなった脳はどんどん壊れていくんだ。それ以上の時間はかけられない」
 BJは患者の頭部に手早く電動のこぎりを使った。白拍子の目には無造作にやっているように映ったが、露出した脳を見ると硬膜に傷ひとつついていない。白拍子は舌を巻いた。
 山田さんの脳よりもツヤツヤとして張りのある綺麗な脳だった。そうだ、この脳はまだ死んでいない。この患者はまだ死んでいない。死なせてはいけないのだと白拍子は思った。
 BJはテキパキと神経や血管を結紮し切り離し、なんと、ほんの2分ほどで脳を摘出してしまった。白拍子は夢を見ているのかと思った。宮代もこれ以上はないというほど目を大きく見開いている。
 BJは取り出した脳を両の掌で温めるように優しく捧げ持った。ほんのしばらくの間、彼はそのままの姿勢でじっと脳を見つめていたが、「行くよ」とひとこと言って山田さんの方へ移ってきた。
「これからは時間との勝負だ。必ず生かすぞ」
「はい!」
 白拍子と宮代が使命感に燃えた声で返事をした。

 それからのBJの手技はまさに神業だった。宮代の器械出しが追いつかないほど速い。内頸動脈から始めてすべての動脈と静脈を繋ぐ。12対の脳神経を繋ぐ。白拍子もいくつかの血管縫合を手掛けたが、BJの手技の鮮やかさには思わず見惚れた。
「先生は、これまでにこんな手術をされたことがあるのですか」と問うと、
「何度かやったよ」と、事もなげな答が返ってきた。
「誰かにやり方を教わったのですか」
「まさか。試行錯誤だったよ」
「怖くはなかったですか」
「怖かったさ。だが、やらなければ、たった一人の命すら救えない。せめて一人の命は救いたいじゃないか。だから無我夢中でやったんだ」
「せめて一人の命を救うため……」
「ああ。こっちに身体を欲しがっている脳がある。そっちに脳を欲しがっている身体がある。出会わせてやれば、せめて一つの命は失われずにすむかもしれないだろう?命は一度なくなってしまったら、取り返しがつかないからな。こんなことができるのは外科医だけだぜ。ほら、白拍子、手を動かせ」
「あ、ああ、すみません」
 自分にはとても到達できなかった考えだと、白拍子は思った。顔が崩れ、身体じゅうがボロボロになっていた時点で、最初から自分はあの患者をすぐに死んでいくものとしてしか見ていなかった。失われたら二度と取り戻すことのできない「命」として見たことなどなかった。どうせ死ぬ。ただほんの少しの間、心臓を動かしておく必要があるから治療しているに過ぎなかった。患者のためですらなかったのだ、と思う。ただ、そこまでやったという自分への言い訳とプライドのためにやっていた。そう、自分のプライドのため、BJに渡したくないというプライドのためだけだった……。
 なんてちっぽけで虚しいプライドだったのだろうかと思った。いま目の前で厚さ1㎜にも満たない神経の鞘に針を通しているこの男は、外科医という仕事に誇りを持っている。外科医にしかできない「命」との向き合い方に誇りを持っている。この男が見ているのは命そのものだった。
 自分など初めから敵うわけはなかったのだ。いや、そもそも最初から自分の存在などこの男の眼中にはなかったのだと思う。悔しい……という思いは、不思議と湧いてこなかった。いま懸命に一つの命を救おうとしている自分は、いままでの自分とは違う自分のような気がした。目が覚めた思いがする。自分は、いま、外科医なのだ、と思った。
 白拍子のピッチも上がった。無我夢中で細い静脈を繋ぎ終えると、もう繋ぐべき血管は残っていなかった。顔のない患者の脳はぴったりと山田さんの頭蓋骨の中に納まった。
「よし、うまいぞ。見たところ、壊死もないようだ。ちゃんと脳に血液は行き渡っているな」
「……信じられません」と、震える声で白拍子が言った。
「脳も身体も、まだ生きたかったんだろうぜ。私たちはその手助けをしてやっただけだ。さてと。問題は神経がうまく繋がったかどうかだが……」
 BJは脳のてっぺんあたりのシワに電極を差し込んで、ごく微弱な電流を流した。
「あッ!」
 と宮代が声を挙げた。
「いま、ほんのわずかですが、患者の足の指が動きました」
「うん、私にも見えたよ。人間の身体ってすごいねえ」
 宮代とBJが嬉しそうに会話している。白拍子は胸がいっぱいになって何も言えなかった。BJは白拍子をチラリと見ると、よかったなあ、成功だぜ、と言った。白拍子はただコクコクと頷いた。
「延髄と頚髄がもっとちゃんとくっつくまで、人工呼吸器はもうしばらくそのままにしておく。次は頭蓋骨を元通りにして、それから山田さんの顔を形成する。このままの顔じゃまずいからな。二人とも休んでいなさい。あとは私ひとりでできる」
 白拍子と宮代は、BJにそう言われて初めて、自分たちがひどく疲れていることに気付いた。手術を開始してからまだ2時間ほどしか経っておらず、またそれは高揚感を伴ってあっという間のように思えたのだが、緊張感が途轍もないものであったことに初めて気づいた。だが、二人とも、いまは休んでなどいたくなかった。
「大丈夫です。やります!」
 二人が異口同音に言い、BJはマスクの下で微笑んだ。

 だが実際には、二人はほとんどやることがなかった。ただBJの手技に見惚れていればよかった。
 BJは頭蓋骨を再び被せて皮膚を縫い合わせた。外見は山田さんだが、例の患者の脳を納めた人間ができあがった。それからBJは山田さんの顔のあちこちにちょいちょいとメスを入れては縫い合わせ、あっという間にまったく別人の顔を作り上げた。誰も元の顔を知らなかった「顔のない男」の顔が、新しくできあがった。山田さんの顔と比べると、どこか気の弱そうな優しげな顔立ちだった。
「こんなところかな。次は……そうそう、耳だ」
 そう言って、BJは二人の患者の間を行ったり来たりして互いの耳介を付け替えた。白拍子が、どうして耳を?と尋ねると、いや、見事な福耳だったからね、と答えた。白拍子は宮代と顔を見合わせて、クスクスと笑い合った。患者の意識が戻った時に別の身体になっていることを気付かせないための処置であることはわかっていたが、気分が高揚しているからか、BJの答えが無性に可笑しくてならなかった。
「記者会見では、左目が眼球破裂していることと、歯がほとんど残っていないことを発表してしまいましたが……」と白拍子が言った。
 BJが、破裂していた目は自然に治ったことにしよう、と言ったときには、ついに宮代がブフッと吹きだした。歯はどうしようかなァ……とBJが途方に暮れたように言ったときには、白拍子は大笑いが止まらなくなった。
「おいおい……」とBJが呆れたように言ったが、脳移植などというとんでもないことを平然とやってのけたBJが、患者に歯があることに困惑している事態というのは、どんな喜劇も及ばないほど滑稽なことに思えた。ひとしきり笑ってから、白拍子が、それは自分が後からどうとでもごまかします、と請け負った。
「よし、頼んだよ。あとは、指紋だな。二人の指先の皮膚を交換する。それから、腹部を開いた痕を付けておかないとマズいな。健康な身体に傷をつけるのは気が進まないが、皮膚をごく浅く切って縫合しておこう」
 BJが言い、それからは白拍子と二人で、山田さんの身体を例の患者のように見せかける作業に没頭した。

 すべての施術が終わったのは曜日も変わった木曜日、午前2時だった。
「術式終了。協力に感謝します」
 BJが宣言し、頭を下げた。白拍子と宮代も礼をした後、BJへ心からの讃嘆の拍手を贈った。
「BJ先生。こんな経験は初めてでした。手術でこんなに感動したこともありませんでした。しかも……、こんなことを言うと不謹慎かもしれませんが……、やっていてこんなに楽しいオペも初めてでした。ありがとうございます、BJ先生。患者も救われましたが、私も救われた思いがします」
 白拍子が握手を求めて右手を出すと、BJはその手をがっちりと握った。その上から宮代がそっと自分の手を重ねた。BJを見つめる目が潤んでいる。感動で言葉も出ないようだ。BJは左手で彼女の肩を抱き寄せて、ありがとう、と言った。

 患者の容態は安定していた。頭部は鼻と口を除いて包帯とネットで覆われている。もうしばらくは人工呼吸器をつけ、自発呼吸ができるようになったら白拍子が取り外すことになる。
 また、もう一人の患者……つい数時間前まで「顔のない男」と呼ばれていた患者の身体のほうは、傷を綺麗に縫合され、全身を包帯で巻かれて、いまは永遠の眠りについていた。3人は静かに合掌した。

「さて、では私は逃げる算段をするよ。あとはさっき説明した手筈どおりによろしく」とBJが言い、二人が名残惜しそうに、はい、と答えた。
 まず、白拍子が患者のストレッチャーを押して手術室を出ると、案の定、安井が居ても立ってもいられない様子で待っていた。
「ど、どうなりましたか。患者は助かりましたか」
「ええ、手術は成功しましたよ」
 白拍子がにっこり笑って答えると、ああ……!と叫んで、ストレッチャーにしがみついた。ほっとして腰が抜けたようだった。
「安井さん、まだ安心するのは早いですよ。BJ先生が着替えを終えて出てきたら、すぐに逃がしてあげるという仕事が残っていますよ」
「ああ、そうでした、そうでした。職員通用口から車でお帰りいただく段取りになっています」
「ちゃんと案内してあげてくださいね。私はこれから、この患者を〇〇警察病院に搬送します。救急外来に患者搬送車が来ているはずですから」
「え?何ですって?そんな話は聞いていませんが……。当院の集中治療室ではいけないのですか」
「この患者は重大事件の容疑者です。警察がちゃんと身柄を保護できる場所のほうがいい。うちの病院よりは警備もしやすいだろうと思って、手配したのですよ」
「ああ、なるほど……」
 安井はしばらく考えていたが、患者を治したのが当院の医師であるところの白拍子であるならそれでいい、いつまでも東西大学病院に警官の見張りがつくのは遠慮したいところだったから好都合だと思ったのだろう、了解しました、と言った。
 BJを待つ安井を残して、白拍子は患者のストレッチャーを救急外来の入り口まで運んだ。予定どおり、車体に「〇〇警察病院」と書かれた患者搬送車が停まっていた。後部ドアのところに強面の男が一人立っている。
「友引警部さん?」
 白拍子が問うと、そうです、待ってました、と言う。
「すぐに運んでください。私が付き添います」
「手術は成功しましたか。患者は助かりましたか」
 幾分心配そうな声で尋ねる警部に、白拍子が、はい、と答えると、警部は雄叫びを挙げてガッツポーズをした。
 BJが河内に襲撃されたとき、友引警部に依頼したのが、患者を転院させることだった。自分が狙われたからには、患者はこれからも狙われる可能性があるとBJは考えたのだ。襲撃者は河内だけとは限らないかもしれない。患者を生かしておきたくない誰か、黒幕Xがもし他にいるとすれば、患者をここに置いておくのはまずい。そう考えてBJが打った一手だった。
 ストレッチャーを車に載せていると、路上からカメラのフラッシュがたかれた。「白拍子先生だぞ」という声が上がる。「ということはあの患者か!」という声も聞こえる。「ビデオ回せ!」「ライトもっと明るく!」「〇〇警察病院まで先回りしろ!」「社に連絡!」「応援頼む!」……
 にわかに大騒ぎとなった救急外来入り口から、マスコミ陣を掻き分けるようにして患者搬送車がすべり出た。
 
 同じ頃、BJと安井は職員通用口にいた。そこにいたマスコミ陣は皆、救急外来の方へすっ飛んで行った。ざわめきがかすかに聞こえてくる。
「BJ先生、ありがとうございました。これは報酬です」
 安井が言って、黒いアタッシェケースを手渡した。
 BJは中身をざっと確認して、言った。
「結構。ではこれで失礼するよ」
「先生。今回のことはくれぐれも……」
「わかってるって。心配しなさんな。私とこの病院とは、何の関係もないよ」
 それだけ言うと、用意されていた車を断って、黒衣の医者は闇に消えて行った。
 安井は深々と頭を下げた。

 また同じ頃、宮代が手術室から一人の患者の遺体を霊安室に運んだ。白拍子が書いた「死亡診断書」を枕元に置く。それには「氏名、生年月日 不詳。備考:『山田さん』と呼ばれていた。……死亡時刻 18時45分。……死因 クモ膜下出血。」等々と書かれている。朝を待って区役所に連絡すれば、山田さんという行旅人が死亡したということで処理され、荼毘に付されることになる。世間を騒がせている事件の被疑者の「身体」がこういう運命をたどっていることは、世界じゅうでBJと白拍子と宮代の3人しか知らない秘密だった。
 宮代は祭壇に線香をあげ、合掌した。この人は山田さんなのか、それとも顔のない男なのか……。どう考えればよいのか、宮代にはよくわからない。しかし、それが誰であっても、送ってくれる人もなく一人で旅立つのは寂しいだろうと思う。
「私が見送ってあげますよ」
 宮代は優しく語りかけていた。

 木曜日。午前9時。

 安井が意気揚々と院長室のドアを開けた。池端は昨夜は帰宅しなかったようで、椅子に座ったまま居眠りをしていた。
「おはようございます!院長、お聞きになりましたか。手術は成功しましたよ。あの患者、助かりましたよ!」
「なんだって?もう手術は終わったのか。成功したって?……ほぉ、そうか。起きているつもりだったが、つい寝てしまっていたな……。よかったな、安井君。これで君も理事になれる」
「いえいえ、そんなことは二の次で……。これで当院が“次世代高度先端医療構想”の中核病院に指定されることこそが大事なのですよ。早速、大々的にマスコミに発表しようと思いますが、院長のご都合は?」
「まだ白拍子君から何の報告も受けておらん。まずは話を聞いてからだ。彼は集中治療室にいるのか」
「白拍子先生は患者に付き添って、いまは〇〇警察病院におられます」
「〇〇警察病院?何だそれは……。なんでそんなところにいるんだ!」
「手術の後、あの患者を転院させたのですよ。なにしろ、重大事件の容疑者ですから、あちらの方が警察が警備しやすいということで。搬送されるところは今朝のワイドショーでも取り上げられていましたよ。それから、私もいままであちらに行っていましたが、患者の容態は安定しているそうです」
「なんだと!私は聞いていないぞ!誰が勝手にそんなことを!あの患者は当院の患者だぞ!」
 池端が激昂するのを、安井が、まあまあ、となだめていると、ドアがノックされる音がした。安井が行ってドアを開けると、立っていたのは友引警部である。
「ちょっと院長先生にお話があるんですがね。警視庁の友引です」
「あ、はい。院長、警察の方がお見えになりました」
 安井が友引を池端の前へ案内した。
「何のご用でしょうかな。いまちょっと立て込んでいるので、手短かにお話し願いたい。もしも、勝手に患者を転院させたことについての詫びでも言いに来たのなら、こちらにも言い分はあるがね」
 池端が尊大ぶって言うと、友引は、そんなことじゃありません、と言った。
「昨日の午後7時前のことですが、この病院内で暴行事件が発生しました。ご存じですよね?」
 友引が言うと、池端は即座に「知らん」と言った。安井も首を傾げている。
「おや、ご存じありませんか。外来者が突然襲われましてね。ちょうどそばにいた自分が現行犯逮捕したんですが、その襲撃者というのがこの病院の麻酔科の医師だったんですよ」
「なんですって!」
 安井が思わず叫んだ。
「そうなんですよ、安井さん。筋弛緩剤の入った注射器を持っていました。昨夜は犯行を否認していたんですがね、今朝になって急にベラベラしゃべり始めたんです。自分は頼まれただけだと言うんですなぁ。それで、そんなことを頼んだのは誰だと聞いたところ、こちらの池端病院長だと言うんです。それで、お手数ですが、お話を伺いたいので、署までご同行願えませんかね、池端院長」
 安井は横で口をパクパクさせている。
 池端は凶悪なゴリラのような表情で友引を睨みつけた。
「断る。私がどうしてそんなことをしなくちゃいけない?任意同行なら断る権利があるはずだ。しかし、そんなくだらないデタラメを真に受けるとは、警察も落ちぶれたものだな。いいか。河内という男は医者の風上にも置けんチンピラのような男だ。他所の病院で問題を起こして追い出されたのを私が拾ってやったんだ。何をやらかすかわからん札付きの男なんだよ。ウソやデタラメも平気で言う。自分が助かるためにそんな作り話をしているだけだ!」
「ほぉ……」
 友引が凄みのある笑みを浮かべた。安井はキョトンとしている。
「いま、『河内』とおっしゃいましたかね、院長先生。私はただ麻酔科の医師と言っただけで、名前までは言っていませんがね」
「え……」
 池端の顔から血の気が引いた。
「まさか、こんな大きな病院に麻酔科の医師が河内ひとりしかいないなんてことはありませんよね、院長」
 安井は、院長、院長……と呟きながらオロオロしている。
「やはり何かをご存じのようだ。お話を伺います。署まで来ていただきましょうか」
 友引が厳しい口調で言って池端の腕を取った。

 4~5人の警察官に前後左右を固められ、引きずられるように正面玄関まで連れてこられた池端病院長は、マスコミ陣の格好の餌食になった。慌てた様子でチョロチョロと周りを走り回る安井事務局長の姿とともに、朝のワイドショーで生中継された。
「番組の途中ですが、東西大学病院でまた何か動きがあった模様です。現場のレポーターを呼んでみましょう」
「きょう未明に白拍子医師が一人の患者に付き添って〇〇警察病院に行ったことは先ほどお伝えしたとおりです。その患者が富士見商店街連続殺傷事件の容疑者かどうかはまだわかりませんが、いままた池端病院長がパトカーに乗せられて警察に向かうようです。何か関係があるのでしょうか」
「いったい何が起こったのでしょうか。まだ詳細は不明ですが、東西大学病院の池端院長が警察に連行される模様です」
「いま、パトカーに乗りました。後部座席の真ん中に座っています。左右に捜査官が乗りました」
「いま、ゆっくりとパトカーが走り始めました。あ、安井事務局長が見送っています。……安井さ~ん、何があったんですか、お話を……。安井さ~ん」
「安井事務局長は急いで中に入ってしまいました。病院の警備員がわれわれを中に入れてくれません」
「何か動きがあればすぐにレポートしてください。いまの映像を見る限り、院長は『連行』されたという感じでしたね」
「そうですね。何があったんでしょうか……」

 安井は青ざめていた。つい数分前まではあの患者が助かったことで天にも昇る心地でいたのに、病院長が警察に任意同行を求められて連れていかれてしまった。河内医師の暴行事件とやらに何か関係があるようだったが……。おまけにその様子は全国に生中継されてしまったようだ。いったいどうなるのだろう。安井は自分のデスクに戻ると頭を抱えた。

 正午。警察から発表があった。
「富士見商店街無差別連続殺傷事件の被疑者をはねた車輌から採取されていた指紋が、昨日、別件の暴行事件で現行犯逮捕されていた東西大学病院の麻酔科医師・河内龍二被疑者のものと判明した。同被疑者が車輌の窃盗及びひき逃げについて犯行を認めたため、本日午前11時に逮捕状を執行した。なお、同被疑者はこれらの犯行につき、第三者からの教唆を供述しており、引き続き取り調べを行う」

 午後4時。
安井のもとに一本の電話が掛かってきた。
「“次世代高度先端医療構想”の中核病院には東都明協大学病院が指定されました。貴院におかれましては不祥事があったようで、今回はお気の毒ですが……」
 安井の夢が潰えた瞬間だった。
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