「顔のない男」 5

 季節が巡って、〇〇警察病院の病室には梅雨の晴れ間の日差しが差し込むようになった。
 富士見商店街無差別連続殺傷事件の被疑者はベッドの上に上体を起こし、傍には白拍子と友引警部とその連れの刑事がいる。
「きょうは頭の包帯を取るよ。あらかじめ言っておくけれど、君の顔はかなり損傷していて、その……、元の顔かたちがわからない状態だったんだ。だから、大幅な形成手術を施している。以前の君の顔とはずいぶん違ったものになっているはずだから、見たときに驚かないでくれよ」
 白拍子が言うと、患者は小さな声で、はい、と答えた。既に人工呼吸器も外され、少し不明瞭ではあるが、ちゃんとしゃべれるようになっている。
 白拍子が包帯を巻き取ると、傷跡ひとつない顔が現れた。友引が、おお、と感嘆の声を漏らした。友引は患者の顔の損傷がどれほどのものであったか知らない。だが、さんざん「顔のない男」とマスコミが喧伝していたから、もっとひどい状態を想像していたのだろう。びっくりしたような顔をしている。これが山田さんの顔を形成しただけのものだとは、もちろん友引に明かすつもりはないから、白拍子は若干後ろめたいような可笑しいような複雑な気持ちになった。
 白拍子が患者に手鏡を手渡すと、患者はしっかりと手鏡の柄を握った。運動機能も問題ない。
「見てごらん」
 白拍子が言うと、患者はおずおずと手鏡を自分の顔の前にかざした。鏡に映る自分の顔をじっと見る。左右に少し首を振って斜めの顔も確かめる。やがて、小さな声で言った。
「ありがとうございます、先生。元の顔のままです」
「えッ?!」
 これには白拍子も驚いた。
「元の顔のまま?そ、そうなのかい」
「はい。いや、前よりもっと祖母に似ているように思います。嬉しいです」
「それは……よかった。うん、よかった」
 白拍子にはBJが魔法使いのように思えてきた。わけのわからない汗がどっと噴き出したが、ここは素知らぬふうで押し通し、コホンとひとつ咳払いをする。
「きょうは警察の人が来ているんだ。事件のことを聞きたいそうなんだが、話せるかな」
 患者は、はい、大丈夫です、と答えた。
 疲れたら言うんだよ、と、白拍子はそのまま患者に付き添い、友引警部が取り調べを行うことになった。もうひとりの刑事がレコーダーを回し、筆記をする態勢を取った。

 以下は富士見商店街無差別連続殺傷事件の被疑者の供述である。

「中里茂、28歳。現住所は東京都○○区△△町××-×。本籍はG県T郡U村×××です。中学校を卒業するまで、祖母と二人でそこに住んでいました。両親は私が5歳のときに交通事故で亡くなりました。私ひとりが死なずに助かりました。それまでは両親と3人で東京に住んでいましたが、事故の後、U村の父の実家に引き取られました。祖父と祖母は農業を営んでいて、愛情深く私を育ててくれましたが、あまり豊かな暮らしではありませんでした。祖父は私が13歳のときに亡くなりました。
 私は早く社会に出て働いてお金を稼ぎたいと思っていたので、中学卒業後、父の以前の知り合いが東京で営んでいた印刷会社に就職しました。でも、そこは私が勤め始めて1年ほどで不況のあおりを受けて倒産してしまいました。その後、写真の現像所に勤めましたが、そこもすぐに倒産し、あとはいくつもの職を転々としました。
 それでもU村で細々と農業をするよりは稼げるだろうと思って、祖母の元には帰りませんでした。ちゃんと働いてお金を儲けて、祖母に仕送りのひとつでもしてやりたいと思っていました。でも、現実はそんなに甘いものではありませんでした。就ける職はだんだんとレベルが落ちていきました。コネもないし、学歴もないし、専門的な知識もないし、手に技術もないし、車の運転もできませんでしたから。悪い人間に騙されてわずかな所持金を全部盗られたこともありました。とうとう、日々雇用の仕事にありつければいいほう、というところまでいきました。食うや食わずの生活でした。当時住んでいたアパートも、家賃を滞納して追い出され、ホームレスになりました。そうなればなったで、やっぱり祖母の元には恥ずかしくて帰れませんでした。結局、中学卒業以後、一度もU村には帰っていません。
 私はだんだん無気力な人間になっていきました。一生懸命働こうという気持ちはあるのですが、誰も私を必要としてくれないのです。東京の人混みの中で、私は自分が透明人間にでもなったような気がしました。こんなに大勢の人がいるのに、誰の目にも私という人間は見えていないのじゃないかと思いました。もう何を考えるのさえ面倒になっていました。ただ人に言われたとおり、言われた期間だけ機械のように働くという生活でした。生きているという実感すらありませんでした。自分なんてどうなってもいいと思うようになっていました。
 3年ほど前、私はあるビルの建設現場で働いていました。3か月ほどの契約で、資材を運ぶ力仕事です。その間は寮に寝泊まりすることができるので、私にとっては好条件の仕事でした。ところが、そこで働き始めて1ケ月ほどたったころ、私は足場から転落してしまったのです。すぐに病院に運ばれましたが、両足の踵を骨折していて、ギプスをつけられ1ケ月近くの入院を余儀なくされました。当然、その仕事は辞めざるを得ませんでした。そして退院する日になっても、私には病院に支払うお金がありませんでした。健康保険にも入っていませんでしたから……。
 そのときに私を助けてくださったのが、入院していた病院の院長先生でした。私のことを気の毒に思ってくださったのでしょう、治療費や入院費を立て替えて下さり、退院後に住むところを世話して下さり、仕事まで下さったのです。はい、東西大学病院の池端院長先生です。
 院長先生は私を個人的に雇ってくださいました。きちんとお給金もいただいて、立て替えてもらっていた治療費や入院費を少しずつお返ししました。
 どんな仕事だったか、ですか?とても楽な仕事でした。毎日、院長先生のお宅に伺って庭仕事をしたり、力仕事をしたり、不要な書類を燃やしたりというような雑事です。院長先生は奥さまを亡くされていましたので、料理や洗濯などの家事は通いの家政婦さんがやっていました。他に、河内という男の人が時々やってきて何か仕事を頼まれていたようですが、詳しいことは知りません。
 1年ほど前、院長先生から大沢さんという人のお宅を見張るように言われました。院長先生のお宅で仕事があるときは行かれませんでしたが、仕事がない日は毎日のように、大沢さんのお宅の前まで行きました。とても大きなお屋敷で、時代劇で見るような大きな門がありました。その門が見えるファミリーレストランから、日がな一日、人や車の出入りを見張って記録しました。何故そんなことをするのか、理由は別に聞きませんでした。院長先生が私に、そうしろ、とおっしゃるのだから、私はそれに従わなくてはいけないと、そう思っていました。なにしろ、院長先生は私を助けてくださった大恩人でしたから。それに、そういう仕事は、子供の頃に見た刑事ドラマの刑事にでもなったようで、どこか楽しくさえあったのです。
 大沢さんというのは白髪のおじいさんで、訪ねてくる人は多いのですが、ご本人は滅多に外出されることはありませんでした。でも、土曜日の午後には車で出かけられることが多いことがわかってきました。院長先生にそう報告すると、しばらくして、今度は土曜日の午後には富士見商店街へ行くように言われました。指示された理髪店の前をぶらぶらしていると、大沢さんがやってきて、午後2時には店を出られることがわかりました。
 院長先生にそう報告したところ、今度は思いがけないことを言われたのです。理髪店から出てきたところで大沢さんを包丁で刺せ、と。
 さすがに私も驚いてしまって返事に困りました。でも、院長先生は、あの大沢という男は悪人で、殺さないと自分が危うい、だからどうか助けてほしいと、私に懇願なさったのです。私のような人間に頭を下げて頼まれたのです。それに、私がそれを実行した後はちゃんと無事に逃がしてやる、決して警察に捕まるようなことはないからとおっしゃいました。君にしか頼めない、頼む、頼む、と何度も頭を下げられました。私のこれまでの人生の中で、こんなに人から頭を下げて何かを頼まれることなどありませんでした。こんなに自分という人間が人から必要とされたことはありませんでした。何をバカなことを言っているのかと思われるでしょうが、私はそのとき本当に幸せさえ感じたのです。それで、私は承知してしまったのです……。

 事件当日は、まず河内さんと二人で電車に乗ってどこかの駅前のパチンコ屋の駐車場へ行きました。これがどこの駅で何というパチンコ屋だったかは、どうしても思い出せません。すみません。河内さんに連れられて行ったのだと思います。そこに停められていたライトバンのカギを河内さんが何か道具を使ってあっさり開けてしまったことは覚えています。乗れと言われて乗りました。
 次に覚えているのは、富士見商店街の飲み物の自動販売機の前にひとりで立っているところです。無性に喉が渇いていたので缶コーヒーを買って、その場で飲みました。手には包丁を入れた紙袋をぶら下げていました。自分で用意したのか、河内さんから渡されたのかは覚えていません。時間ですか?午後の2時ちょっと前です。2時には理髪店の前に行かなくてはなりませんでしたから。
 そこでもう少し時間をつぶせばよかったのでしょうが、自分がこれからしなくてはならないことを思うとさすがに緊張して、居ても立ってもいられないというか、思わずギクシャクと歩き出してしまって、理髪店の前を何度か行ったり来たりしました。心臓が口から出そうなほどドキドキして、汗がダラダラ出て、でも手足の先はとても冷たくて、生きた心地がしなかったことを覚えています。
 突然、男の人に大声で話しかけられたときには身体が固まってしまいました。その人は大沢さんのところの運転手さんで、お屋敷を見張っていたときに何度も見たことのある人でした。何してるんだ、とか、ウロウロするな、とか、そんなことを言われたような気がします。私は怖くて、もう逃げ出したい思いでいっぱいでしたが、ここで逃げるわけにはいかないと思って、黙って聞いていました。そのとき、理髪店から大沢さんが出てくる気配がしました。この、目の前の男を何とかしないと、私は院長先生のご命令を実行することができないと思いました。お願いだから黙ってくださいという思いで、運転手さんを刺しました。殺すつもりなどありませんでした。ただ、私が目的を果たすまで黙っていてもらいたかったのです。運転手さんは静かになりましたが、そのとき後ろから女の人の悲鳴が聞こえました。思わず飛び上がるほどのすごい声でした。
 その声にすっかり動転してしまって、その後のことは、断片的にしか覚えていません。
 理髪店のドアを開けて出てきた大沢さんに飛び掛かるようにして包丁を突き刺しました。大沢さんが目を大きく見開いて私を見たことは覚えています。私はそのとき、仕事は終わったと思いました。ちゃんと院長先生に言われた仕事はやり遂げた。後は逃げるだけだと。
 私は走りました。走りながら気づきました。まだ包丁を握ったままでした。こんなもの捨ててしまおうと思ったのですが、どうしたわけか、包丁が手から離れないのです。しっかり握ったまま指が固まってしまって、どんなに手を振っても血に濡れた包丁が手から離れないのです。恐怖でした。人を刺してしまったことより、血まみれの刺身包丁がまるで私の身体の一部になってしまったかのように手から離れないことのほうが、怖かった……。包丁を手放そうと、むちゃくちゃに腕を振り回しながら私は走りました。
 商店街の終わりを左に曲がったところに、河内さんがライトバンで待っているはずでした。早くライトバンに乗ろう。河内さんにこの包丁を取ってもらおう。私は泣きながら走りました。とても長かった。何㎞も走っているような気がしました。
 角を曲がった途端、河内さんの顔が目の前にありました。いえ、正確に言えば、河内さんは目だけが見える帽子をかぶっていましたから、河内さんの目が私の目の前にありました。あれ?もう少し先で待っているはずなのに、と思いました。その途端、ものすごい衝撃が腹に来て……。
 私の身体は河内さんの車にはねられて後ろに飛ばされました。そして、宙を飛んでいるほんのわずかな時間で、私にはすべてのことがわかりました。私は利用されただけなんだと。
 信じていただけないかもしれませんが、本当にそうだったんです。仰向けになって飛んでいたとき、とても綺麗な青空が見えました。昔U村で見た広い広い空を思い出しました。自分はもう何年も空を見上げることなんかなかったな、と思いました。うつむいて下ばかりを見ていたな、と。そして青空を見ながら、ああ、私は何ということをしてしまったのだと思いました。河内さんの目には殺意があったのです。それはそれは恐ろしい目でした。ああ、この人は最初から私を殺すつもりだったのだとわかりました。そして、院長先生の計画もわかったのです。私に大沢さんを殺させて、そのあと河内さんに私を殺させる計画だったのだと。私を助けるつもりなんか最初からなかったのだと。それらのことが、本当に、ただの一瞬でわかりました。そして、騙されて、利用されて、二人の人を刺してしまった、その罪深さにやっと思い至ったのです。どうしよう、どうしたらいいんだろう……。
 そのとき私の後頭部が何かに当たりました。グシャリという音が聞こえました。青空が急に真っ暗になって……それから後のことはわかりません」

 中里茂の長い話が終わった。そのときの感情が蘇ったのだろう、彼の目からは涙がとめどもなく流れた。白拍子がそっとタオルを手渡した。
 友引警部は調書を取りながら、これがウソ偽りのない事件の全容だろうと思った。事件のことは中里の耳には一切入れないようにしてある。ところどころ記憶が飛んでいるところがあるようだが、この被疑者は誠心誠意、正直に供述しているという感触を持った。凶悪犯罪の被疑者ではあるが、友引はこの男をなんとも不運で哀れな人間だと思った。そして、迷った。彼が刺した二人が死んだことや、逃げる途中でもう一人、女性を殺害していることを、いまこの場で告げるべきだろうか。
 タオルに顔を埋めて嗚咽する中里を、白拍子が、疲れたろう、と優しく労わってベッドに横にしてやった。それを見て、友引もきょうのところはこれで切り上げようと思い、最後にひとこと声をかけた。
「よく頑張って話してくれた。他に何か話しておきたいことはないかい?」
 中里は、鼻をグスグス言わせながらしばらく考えた後に、不思議な夢を見ました、と言った。
「ほぅ、どんな夢だい」
 友引と白拍子がまた椅子に座り直すと、中里は語り始めた。
「河内さんの車にはねられた後、私はきっと病院へ運ばれたのでしょうね。私自身にはその記憶はありませんが……。治療を受けているときのことだと思います。どれほどの時間がたったのかわかりませんが、時折ふと……、そう、まるで暗い水の底から水面近くまで浮き上がるような感じになることがありました。でも完全に浮き上がることはできなくて、そんなとき、私の心の中は、後悔と悲しみと苦しさでいっぱいでした。ちょうど青空を見ながら宙を飛んでいたときに感じていたのと同じ感情です。どうしようどうしよう、誰か助けて、と叫びたいのですが、肺の中が水でいっぱいになっているような感じで声も出ないのです。そしてまた真っ暗な水の底に落ちていく。そんなことが幾度かありました。そして、回数を重ねるにつれて、だんだんと水面が遠くなっていくのです。浮き上がる力がなくなっていくのです。もう自分はあそこまでは上れないのだと思いました」
 白拍子は痛ましそうに顔を歪めて中里の話を聞いていた。それはきっと自分が治療に当たっていたときのことだろうと思った。意識はないと思っていたが、中里がそんな夢を見ていたのかと思うと、たまらない気持ちだった。
 中里は話し続けた。
「真っ暗な水の中を私は漂っていました。もう水面ははるか遠くです。とても寒かった。とても悲しくて苦しくて辛かった。それだけしか無い世界でした。そして、もっともっと深いところまで沈んでいきそうになったときのことです。ふいに、私は温かくて柔らかなものに包まれたのです。それはとても心地の良いものでした。そして、声が聞こえました。聞いたことのない声でした。その声は私に、生きろ、と言いました。おまえは新しく生まれ変わる、どんなに辛くても生きろ、と」
 白拍子は、あッ!と思った。あのときだ!白拍子は思い出していた。中里の脳を取り出したBJが、その脳を両の掌の上にそっとすくい上げ、何かを語りかけるように見つめていたのを。あのときのことだ!実際にはBJは声に出しては何も言わなかったはずだ。少なくとも自分には何も聞こえなかった。だが、あのときBJは中里に、生きろ、と語りかけていたのだ。そして、耳も何もないただ脳だけになった中里は、その声をちゃんと聞き取っていたのだ!
 白拍子は自分の身体がカタカタと震えるのを抑えることができなかった。震える指先を自分の口元に持っていった。そうでもしないと、何かわけのわからないことを叫んでしまいそうだった。これは……、奇跡か?!
 友引はそんな白拍子を不思議そうにチラリと見たが、特に何も触れずに、それで?と、中里に話の続きを促した。
「はい。私の夢はそこまでです。でも、あの声を聞いてから、暗い水の底を這いずり回っているような感覚はなくなりました。このベッドの上で目を覚ましたときには、真っ先に、自分は生まれ変わったのだと思いました。もう以前の自分ではないと思いました。そして……、そして、どんなに辛くても、自分が犯した罪は償おうと思いました。自分はそのために生まれ変わったのだと……、生まれ変わらせてもらったのだと、そう感じました。刑事さん、私が刺した人たちはきっと亡くなられたのでしょうね。どんなに反省しても後悔しても謝罪しても取り返しのつかないことを私はしてしまいました。でも、生まれ変わったこの命で、一生懸命償おうと思っています。それが私の生きる意味だと思っています。これまで、生きているという実感もなく、無気力にその日暮らしを続けてきた私ですが、やっとこんな形で自分の生きる意味を見つけることができました。先生、刑事さん、あの声は神様の声だったのでしょうか……」
 中里の目からはまた涙が溢れたが、それはこれまでのような悲しさや悔恨の血の涙ではなく、大きな感動に裏打ちされて生きる覚悟をした者だけが流せる、どこまでも澄んだ美しい涙だった。


「中里を使って大沢を殺そうとした謎の人物『X』は東西大学病院の池端院長だったってわけだ。中里に大沢を殺させ、次に中里を河内にひき殺させる計画だったのに、何の因果かその中里が自分とこの病院に運び込まれたんだから、そりゃあビックリしたろうぜ、なあ」
 梅雨も明けた夏の夜、友引警部はBJ邸を訪れて中里の供述内容と事件の顛末を語っていた。手土産に持ってきたノンアルコールビールで喉を潤し、時折おつまみの柿の種をポリポリ噛んでいる。照明を落としたBJ邸の窓は開け放たれ、夜の海風にカーテンがそよいでいる。
「池端はしばらくはふてぶてしく黙秘していたんだが、中里と河内が正直に話してくれるからこっちはどんどん追及できた。それに、決定的な証拠として、河内が中里をひき殺すように命じられたときの録音テープがあったんだ。河内って奴もなかなかしたたかな小悪党で、抜かりなくちゃんと隠し録りしていたんだな。それを突きつけたら、池端も観念してようやくポツポツとしゃべってくれるようになった。全面自供も目前だ。河内という男は、東西大学病院の麻酔科に籍を置きながら、池端の個人的な用事をいろいろこなしていたらしい。中里をひき殺すのに失敗した後は、G県の中央郵便局の防犯カメラに写っていたりもするんだ。高額の為替を作ってどこかに送ったらしいんだが、これもきっと池端の命令だろう。叩けばいくらでもホコリが出そうな奴だよ。いやあ、しかし、二人も逮捕者を出した東西大学病院はもうガタガタだな。白拍子先生はまた海外へ行くようだし、安井事務局長は腑抜けのようになっていたぜ」
 警部は、腹が膨れるばっかりだ、とぼやきながらも、3本目の缶のプルトップに指をかけた。
「そうそう、池端は過去に起こした医療事故で大沢に強請られていたようだ。カルテを改ざんしたのを大沢に嗅ぎつけられて、毎月かなりの大金を大沢に貢いでいた。これでやっと大沢を本格的に調べられるところまでこぎつけた。本人が死んでいるからなかなか難しいこともあるだろうが、俺はやるぜ。いまにでっかい悪事を暴いてやる。……いやあ、それもこれもみんな先生のおかげだ。礼を言う」
 警部はペコリと頭を下げた。
「別に、あんたに礼を言われようとは思っていないよ。それに、そんなテープが出てきたのなら、河内の証言だけで十分だったろう。中里の証言なんか別に要らなかったんじゃないのかい」
 BJが言うと、警部は、いやいや、と顔の前で手を振った。
「考えてもみろよ、先生。河内をとっ捕まえることができたのは、奴が池端の命令で先生を襲ったからだぜ。もしもあのとき池端がそんな命令を出さなかったら、河内の存在なんか俺たちにはわかりゃしなかったんだ。結局、池端が余計なことをしたってことなんだが、そうさせたのは先生、おまえさんだぜ。もしかしたらおまえさんが中里を治してしまうかもしれない、そう思ったからこそ、焦った池端は河内に先生を襲わせたんだ。池端のボロを出させたのは先生なんだ。だから、この一件の立役者は先生なんだよ」
 そう言って、警部はまたペコリと頭を下げた。
「もういいって。それより、患者は、中里茂は元気かい」
「ああ、まだ入院中だが、毎日リハビリに励んでる。いずれ裁判にかけられることになるが、たとえ死刑の判決が下っても、しっかり罪を償う覚悟だと、何度も何度も俺に言うんだ」
「そうか」
 BJはポツリと言った。
 警部は少しの間、黙った。中里の証言が池端の悪事を暴き、更には巨悪を暴く突破口にもなったことは刑事として喜ばしく思う。しかし、中里のこれからを思うと心苦しいものがある。
「なあ、先生。俺はいまになって、中里の命が助かったことが良いことだったのかどうか、わからなくなってるんだ。もし死刑が求刑されれば、先生は中里を死刑にするために助けたことになっちまわないか?先生は……どう思う?」
 BJはノンアルコールビールを一口飲むと、言った。
「たとえ結果的にはそうなるとしても、私はそんなつもりで手術したわけじゃないよ。ただ、あの患者があのまま死んではいけないと思っただけだ。あの患者には……、いや、何でもない」
「何だよ。何を言いかけたんだよ」
「何でもない。さあ、もうそろそろ帰ってくれないか。私はちゃんとアルコール分のあるビールが飲みたい」
「俺が車で来てるんだからしょうがないだろう。ちぇッ、はぐらかしやがって……。わかったよ。帰るから最後にあと一つ答えてくれないか」
「何だ」
「俺にはわからないことがいくつかあるんだ。先生がどんな手術をしたのかというのが一つ。でもまあ、これについては、専門的な難しいこと言われても俺にはわかんねえから、よしとしよう。白拍子先生に訊いても何も言わねえしな。もう一つどうしてもわからないのは、中里が自分の顔が元通りだって言ったことだ。これはどういうことだ?俺は手を回して、集中治療室にいたときの中里の顔を見てみたんだよ。顔の皮がズル剥けていて、パックリ傷が開いてて、鼻はないし、もうそこらじゅうグシャグシャだった。ホラー映画のゾンビよりも酷いありさまだった。元の顔かたちなんかわかりゃしなかった。それをどうして、元通りの顔に復元できたんだ?」
 BJは、偶然だ、と言い放った。
 警部は、そんな偶然があるかよ、と食い下がったが、もうBJからは何も聞き出せそうになかった。
 帰れ帰れと追い立てられて、警部は渋々BJ邸の外に出た。BJが玄関の階段のところまで見送りに出る。今度は逮捕令状を持って来るからな、と言う警部に、BJが、もう二度と来るな、と言い返す。ハハハと笑って数歩進んだ友引警部は、急に振り返って直立不動の姿勢を取り、右手を額にビシリと当てて敬礼をした。真面目な顔をしていた。彼なりの敬意と謝意を表すと、BJがドギマギしている間に、車に乗って帰って行った。

 赤いテールランプが遠ざかると、夏の虫が鳴く声とかすかな潮騒が聞こえてきた。BJは誘われるように階段を降りると空を見上げた。南北に天の川が流れ、天頂近くに夏の大三角が見える。
「あえはなんていう星?」
 突然、足元から声がした。
「ピノコ、まだ起きてたのか。もうとっくに寝てると思ってたのに」
「まだ宵の口よのさ。ねえ、あえはなんていう星?」
 精いっぱい腕を伸ばしてピノコは星を指し示す。
「こと座のベガだ。七夕の織姫だよ」
「じゃあ彦星はどえ?」
「天の川の反対側の岸辺にいるよ。わし座のアルタイルだ。七夕の頃しか話題にならないけど、一年中ずっとああやって割と近くにいるんだ」
 先生とピノコみたいね、とピノコははしゃいだ。
「もう一つのあかゆい星は何?」
「はくちょう座のデネブ。大きな翼で天の川の中を飛んでるんだ」
「ふうん」
 ピノコはしばらく口を開けて天頂近くの星を見つめていた。
「ねえ、先生。つばさくん、どうなゆかちらね」
「……つばさくん。誰だいそれは」
「あの事件でお母さんをこよさえてしまった小池翼くんよ」
「……どうしてその子のことが気になるんだい」
「らって……」
 ピノコはBJの脚にぴったりと寄り添った。
「先生はつばさくんのためにあの犯人を助けたんれしょ?」
 え?とBJはピノコを見下ろした。
「あのまま、わけもわかやないまま、犯人が死んれしまったや、つばさくん、気持ちの持って行き場所がないれしょ。お母さんがろうちてこよさえちゃったのか、わかやないままなんて、ひろすぎゆれしょ?ちゃんと生きて、わけも話して、心の底から謝ってくえなくちゃ、つばさくん、あの犯人を許すこともれきないれしょ。先生、そう思ったかや、あの犯人を助けたんれしょ?」
 BJは言葉を失っていた。誰にも一言も漏らしていない自分の心の中を、この子だけはすべて見通していた。
 そう。自分と同じような理不尽な事情で、幼くして母を亡くすことになってしまった小池翼という少年のために、自分は手術をしたのだ……。
 ピノコは小さな指で星を繋いでいる。
「あんなに大きな翼があゆんらかや、きっとつばさくんはらいじょーぶね。きれいな天の川の中を、ろこまれも飛んでいけゆのよさ」
「……ああ、そうだな」
 言いながら、BJはピノコの柔らかな髪の毛をグシャグシャにしてやった。
 んもぉ~、せっかくブヤッシングしたのにぃ!と怒るピノコ。もう寝るぞ、とスタスタと家に向かうBJ。
 満天の星がシャラシャラとさざめきながら、ふたりの影を見送っていた。

                                                            (
了)
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

コメント御礼

チロさん

お読みいただきありがとうございますm(__)m
最後まで読んでいただけただけでも嬉しいのに、有頂天になってしまうコメントまでいただき、もう本当に天に上ってお空の星になってしまいそうな気分です^^
ありがとうございますm(__)m

最後のシーンはチロさんのご推察のとおりですが、アニメというよりは原作を下敷きにしたつもりです。私もあの作品は5本の指に入るほど好きです♪

また、pixivでのフォローもありがとうございます。もうあちらにはほとんど出入りしていませんでしたが、おかげさまでチロさんの作品も拝見することができ、嬉しい限りです。
チロさんのイラスト、繊細な中にも若さと内に秘めた強い力を感じる色合いが魅力的でした♪ 描線が美しいのもステキです。
これからも素敵な作品を楽しみにしていますね。……と、こんなところでコメントすみませ~ん^^;

No title

わかばさん
コメント返信、そしてpixivの方もありがとうございます(こちらにすみません。)イラストへのコメントも本当に嬉しくて宇宙に飛び出しそうです。
わかばさんのブログで度々創作意欲が刺激されているので、これからもBJの絵は描き続けます←

ネタバレもりだくさんのコメントですみません(((;´・ω・)
星の話は原作の方でしたか!ピノコが最後のシーンで、離れて大きく光ってる星と小さく寄り添う星の話をするのが印象に残っていますが、改めてそれを踏まえてみるとこの小説の最後もまさしくそんな感じですね・・・。嗚呼素敵(*´Д`*)

Re: No title

チロさん

重ねてのコメントありがとうございますm(__)m
拙ブログがチロさんの創作意欲を刺激しているとすれば、こんなにうれしいことはありません。
ここのところまともなBJ語りをしておりませんが、チロさんのイラストを拝見するためにもどんどん書かなくてはなりませんね(笑)。
あっちも頑張りま~す^^

最後のシーンは、私の考えるBJとピノコの関係をそのまま書いたものです。あくまでも「私の考える」ですが。
お気に召していただけたなら、最高です!\(^o^)/