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「顔のない男」 1

 うららかな春の陽気の土曜日である。
 午後2時、都内某所にある富士見商店街は結構な人出でにぎわっていた。昭和時代の佇まいを残したどこか懐かしい風情の商店街である。車がやっとすれ違えるほどの道幅なので車両は一方通行。駐車場を備えた店もほとんどないため、そもそも車は滅多に入ってこない。人々は道いっぱいに広がってあちこちの店をのぞきながら歩いている。高級ブランド品を売るような店はないが、100mほどの通りを歩けばたいていの用事は足りるから、地元民には重宝されていた。

 最初に異変に気付いたのは不動産屋の奥さんだった。店のガラス戸に新しい物件の貼り紙をしようと表を見ると、向かいの理髪店の前に停まっている車の脇で二人の男が声高に話をしていた。いや、正確に言えば、片方の男が何やら声を荒げていて、もう一方の男はただうなだれているだけだ。ジロジロ見てるんじゃねぇとか、ウロウロするなとか、声を張り上げている男には見覚えがある。ほとんど毎週のようにこの理髪店にやってくる白髪のお爺さんの送り迎えをしているヤクザっぽい運転手だ。車がほとんど入ってこない商店街だからこそ、定期的にそこに停まっている車と運転手を覚えていたともいえる。
 怒鳴られてうなだれている男の方は、こちらからは顔が見えないが、20代から30代くらい。目深にキャップをかぶり、ありふれた紺のチェックのシャツと着古したジーンズを身に着け、左手には茶色い紙バッグをぶらさげている。
 早く逃げればいいのに。因縁をつけられてかわいそうだわと思いながら、それとなく表に出て眺めていると、キャップの男がギクシャクとした動きで紙バッグに右手を入れるのが見えた。そして手を突っ込んだまま紙バッグを運転手の腹のあたりに押し付けた。
 ふいに、運転手のぎゃんぎゃん言う声が途絶えた。彼は不思議そうな顔をして自分の腹部を見下ろしている。キャップの男は相変わらず紙バッグを運転手の身体に押し付けたままだ。茶色い紙バッグの底が何故かじわじわと赤黒く変色していく。
 数秒間の静寂。
 次の瞬間、不動産屋の奥さんの悲鳴が商店街に響き渡った。

 その日の夕方から翌日曜日にかけて、テレビは「富士見商店街連続殺傷事件」もしくは「富士見商店街通り魔事件」のニュースしかやっていなかった。どの局も救急車やパトカーの赤い回転灯が画面をよぎる映像を配信し続け、規制線が解除されるやいなや何人ものレポーターが通りを駆けずり回って興奮した声を全国に垂れ流した。
「ここです。ここで犯人はまず山本則夫さんの腹部に包丁を突き刺しました。続いて、ちょうど理髪店から出てきた大沢健吉さんの胸にも包丁を突き刺しました。犯行を目撃していたこちらの奥さんにお話を聞きます」
「もうね、最初は何がなんだか、わからなかったの。でも、二人の……そう、犯人と運転手さんよ。二人の足元に何か赤いものが、いっぱい、ぼたぼた落ちてきて……。血だ、ってわかって、私、悲鳴を上げたと思います。そのあと、あのお爺さんも襲われちゃって……」
「山本則夫さんと大沢健吉さんの二人は、救急車の中で死亡が確認されました。ほぼ即死だったとのことです」
「二人を刺した犯人は、こちら、東の方向へ向かって走りました。……そして……、ここ。最初の犯行現場から10mくらいの地点でしょうか。こちらの青果店のご主人が犯人を止めようとして腕に切りつけられました」
「女性のものすごい悲鳴が聞こえてさ。何ごとかと思って往来に出たんだよ。そしたら、えらい勢いで男が走ってきたもんだから、なんだかわからないけどとっさに止めようとしたんだよ。包丁?いや、そのときは見えなかったね。見えてたら防ぎようもあったかもしれないけど。紙バッグの中に包丁が入ってたんだねぇ。腕をバッサリ切られて、転ばされちまって……。オレがあいつを止めてたら……ねえ。悔しいよ」
「容疑者は更に走りました。走りながら血に濡れた紙バッグをここに破り捨てました。痕跡が残っていますね。目撃した人に話を伺ったところ、それからはめちゃくちゃに包丁を振り回しながら走っていったそうです。そして次の被害者が出てしまいました。青果店から東に20mほどのところにある書店の前です」
「はい、うちでよく本を買ってくださっていた小池さんという女性です。レジでお金をいただいているうちに、お連れの坊やが先に店を出ちゃったんです。そのとき何か通りが騒がしくなって……、ええ、悲鳴や叫び声が聞こえましたし、たくさんの人が走っていましたし。……で、小池さんも急いで店を出られたんです。そしたら、坊やが道の真ん中に立っていて……、あっちから腕を振り回しながら男が走ってきて……。小池さんは坊やの前に飛び出していかれたんです。そうしたら、男に首を切られて、血が噴き出して、……もう、言葉が出ません」
「小池美奈子さんは喉元を切りつけられました。最寄りの自性会早明病院に搬送されましたが、病院で死亡が確認されたとのことです」
「男は更に走りました。何も知らずに商店街に入ってきた高校生の一団に突っ込み、振り回した包丁によって三人が腕や足などに軽傷を負いました。避けようとして自転車で転んだ男子高校生も軽いけがをしました」
「なんかテロ的な?ちょーヤバかった。え、マジっすかーみたいな」
「白昼の惨劇はここ、この地点で衝撃の結末を迎えました。ここはT字路になっています。アルファベットのTの字を思い浮かべてください。横棒の右半分が富士見商店街で、左半分は住宅街です。縦棒が通称“極楽通り”と言われる飲食店街になります。縦棒が横棒に接するところ、極楽通りの突き当りに富士見郵便局があります」
「犯人は富士見商店街を走り抜け、左に曲がりました。極楽通りへ曲がっていったのです。曲がった途端……曲がった途端にですね、ここで、極楽通りを暴走してきたライトバンにはねられてしまったのです」
「5m……いや10mくらいは吹っ飛んだと思うよ。後ろ向きに宙を飛んだのが見えた」
「極楽通りの方へ曲がって逃げたんだと思ったら、ドカーンってものすごい音がして、また姿が現れたの。車にはねられて飛ばされたのね。商店街の通りを横切って飛んで、郵便局の脇の電柱に頭からぶつかっていったの。そう、後頭部から」
「イヤなもん、見ちゃったし聞いちゃったよ、まったくもう……。ドカーーン、グシャッ、ドゴーンだよ。最後のドゴーン?電柱にぶつかったのがグシャッだろ。そのあと下に落ちるときに前のめりになって、顔を郵便ポストに打ち付けたのがドゴーンだよ。あの音は一生忘れねえな……」
「容疑者の男は東西大学病院に搬送されました。いまのところ、生死もけがの程度も不明です。男の身元もまだ明らかになっていません。また、極楽通りを暴走してきたライトバンはそのまま左へ折れて逃走しました。つまり富士見商店街とは反対の方向へ走り去ったのです」
「極楽通りに設置された防犯ビデオから車のナンバーが確認されましたが、事件当日の午前中に都内のパチンコ店の駐車場から盗まれて盗難届けが出されていた盗難車であることが判明しました。最近都内で頻発している外国人グループによる車の窃盗事件との関係も含めて、警察が車の行方を追っています」
「富士見商店街と極楽通りが接するまさにこの地点で、偶然にも二つの事件が接したのです。あまりにも運命的、あまりにも象徴的な出来事と言わざるを得ません。そしてその衝撃的でやり切れぬ結末には、もはや言葉もありません。現場からは以上です」

 日曜日の夕方、岬の家では、ピノコが食い入るようにテレビに見入っていた。
「ひろいわのよ。なんれこんなことすゆのよさ……」
「何が広いんだい」
書いているカルテから目も上げずにBJが言った。
「ひどいって言ってんのよ。先生わかってゆくせに」
「子どもがそんなもん見るんじゃない。それより、そろそろ晩飯の支度の時間じゃないのか」
「カレーがたっぷり作ってあゆかや大丈夫。あとはサラダでも作ゆことにすゆけろ……」
「けど、何だよ」
「先生。ピノコ、子ろもじゃないかや」
怒ったふうを装ってキッチンに向かうピノコを見送ってから、BJはテレビの画面に目をやった。商店街の路上や郵便局脇の電柱、四角いポストなどがモザイク処理されて映っている。そこに流された大量の血はまだ乾ききってはいないのだろう。三人を殺害した男の生死はまだ不明だという。
「東西大学病院か……」
 天才外科医はひとりごちた。

 午後6時。テレビで生中継が始まった。
「それでは、これより記者会見を行います。私の隣が東西大学病院の院長・池端慶之教授。その隣が外科部長・白拍子康彦。私は事務局長の安井肇でございます。昨日発生した『富士見商店街無差別連続殺傷事件』の容疑者の容態についてご説明したいと存じます」
 配られた資料をバサバサとめくる音、無数のシャッター音、キーボードをたたくカチャカチャという音をマイクが拾っている。東西大学病院の大会議室には新聞、テレビなどの報道陣が150人ほども集まっていた。正面にしつらえられた長机の上には無数のマイクやレコーダーが置かれている。三人が着席した。
「これより着座のままで失礼いたします。また最初にお断りしておきますが、この容疑者につきましては未だに姓名が判明しておりません。いずれ警察の方から詳しい発表があるでしょうが、昨日午後2時45分に当院に救急搬送されてきたこの容疑者は、その時点で身元を証明できるものを何一つ身につけていませんでした。それで、ここでは単に『患者』と呼ばせていただくことにいたしますのでご了承ください。では白拍子先生、お願いいたします」
 白拍子がマイクを握ると無数のフラッシュがたかれた。病院長の池端がでっぷりと肥えて鈍重な印象を与えるのに比べて、白拍子はいかにも育ちの良さそうな清潔さとスマートさを持っていた。髪は綺麗になでつけられており、糊のきいた白衣にはもちろんシミひとつない。趣味の良いネクタイを締め、顔立ちも悪くなかった。海外で外科手術の腕を磨き、若くして外科部長として迎えられた超エリートだ。話題性もあり写真に収めておいて損はない人物だったから、下世話な週刊誌の記者たちも盛んにシャッターを切っている。
 緊張しているわけではないだろうが、白拍子は少し青ざめた顔で話し始めた。
「外科部長の白拍子です。患者の現在の状態について所見を申し述べます。昨日、患者は心肺停止の状態で当院に搬送されてきました。当院救命救急センターにおいて直ちに蘇生措置が行われ、一命を取り留めておりますが、意識レベルは300です。患者は、20代から30代の男性。身長172㎝、体重は60㎏。手術痕などは無く、身体的に特筆すべき特徴は見当たりません。血液型はO+です。そして現状ですが、一言で申し上げて、予断を許さない状態が続いています」
 会議室がざわついた。
「まず正面から車に激突した際に多くの内臓を損傷しています。小腸、上行結腸、横行結腸、膵臓、肝臓など。特に重篤なのが肝臓からの出血で、これを抑えるのが喫緊の課題となっています。ただいま内科とチームを組んで対処しているところです。続いて、電柱にたたきつけられたときにできた脊椎と後頭部の損傷。頸椎と胸椎の多くが骨折またはヒビが入った状態です。また頭頂骨と後頭骨が広範囲に陥没していました。その衝撃により、脳実質の頭頂葉、後頭葉、また前頭葉からも出血と浮腫が見られます。命を取り留めることができたとしても、何らかの後遺症が残るかもしれないレベルです」
 また会議室がざわついた。
「続いて、ポストに打ち付けたという顔面の損傷について。鼻骨、上顎骨、下顎骨、涙骨、頬骨の骨折などです。出血部位からの血液が気管に流れ込むので吸引を行い、現在は口から挿管して呼吸を確保しています。そして、これは警察からの発表を待つべきことかもしれませんが……」
 白拍子は言葉を切った。池端院長を見やると、重々しく頷いたので、白拍子は言葉を継いだ。
「患者の顔面の損傷が甚だしいことを指摘しておきます。鼻は潰れていて隆起は無いに等しく、左眼球も破裂しています。歯もほとんど折れて欠落していますし、皮膚の裂傷も深い。つまり、顔の様相を呈していない状態です」
 会議室が大きくどよめいた。
「それはつまり、顔が判別できないということですか?」
 最前列の記者が思わず質問を発した。まだ質疑応答の段取りではなかったので安井事務局長が口を挟もうとしたが、池端院長がそれを制して自らマイクを握った。
「そのとおりです。顔というものの原形をとどめていない、ところどころに穴があいているただの血まみれの肉塊という表現がふさわしいでしょう」
 その場にいた全員が息をのみ、思わず顔をゆがめた。身震いする者もいる。
 院長は無頓着に話を続けた。
「ですから、警察も患者の身元を調べるのに手間取っているのです。帽子をかぶっていたせいで防犯カメラにも顔ははっきり映っていなかったと聞いています。現場に居合わせた人々も逃げるのに懸命で、患者がどんな顔をしていたのか、誰もはっきり覚えていない。モンタージュ写真を作って捜査することもできないわけです。指紋は当院で採取してすぐに提出しましたが、警察が蓄積しているデータの中に該当者はいなかったそうです。歯の治療痕から調べようにも、歯そのものが砕けてほとんど残っていない。現在はDNA鑑定が行われているようですが、この患者の身元捜査に関して、警察はお手上げ状態なのです」
 一気にしゃべって喉が渇いたのか、院長はグラスの水をゴクリと飲んだ。
 (そこまで言わなくても……)という顔で安井事務局長がさかんに院長を見ているが、院長はいっこうに気にしない。立ち上がると、拳を振り上げながら力説し始めた。
「警察に協力するために、この患者の治療に専心することが我々の責務であります。幸いにも当院にはこの白拍子外科部長をはじめとして、日本でも、いや世界でも指折りの医師が大勢おります。また設備面においてもここには世界最先端の医療機器が揃っています。間違いなく日本一充実した病院であると自負しているところであります。当院で救えない患者はいないと言っても過言ではありません。確かにあの患者の症状は重篤です。しかし、甚だ困難な道ではあるにせよ、わが東西大学病院は死力を尽くしてこの患者の治療に邁進する覚悟であります」
 場にそぐわないこの演説に場内は白けた。事務局長はオロオロし、白拍子はそっぽを向いた。
「で、では、質問を受け付けます。質問のある方は挙手してください」
 事務局長が強引にマイクを奪い取り、司会を続行した。院長はまだしゃべり足りない様子だったが、一応の満足はしたらしく、質疑応答は白拍子に任せてその後は一切発言しなかった。

 記者会見を取材し終えた報道陣は全員病院の敷地の外に追い出された。記事や番組を編集するために急いで社に戻る者もいたが、大半は病院前に陣取ってスクープを狙った。「予断を許さない状態」と発表されたからには、いつ何時事態が動くかわからないのだ。正門だけでなく裏門にも大勢の記者やカメラマンが張り付いて、病院関係者や警察関係者の出入りに注意を払い、誰彼かまわずにインタビューを敢行してはすげなく断られていた。

 午後10時。今度は警察が記者会見を行った。東西大学病院長の発言に挑発されて急遽セッティングしたのかもしれない。捜査本部長がまず事件の概要を説明した。犯行に用いられたのは刃渡り22センチの刺身包丁であり、どこで購入されたものか捜査中であると発表された。続いて被害者三人について姓名、年齢、死因等が発表されたが、テレビや新聞で既に報じられた以上の情報はなかった。最大の関心事である被疑者については「身元不明であり、捜査中」の旨が伝えられただけで、テロではないかとの質問にも「捜査中」との返答があったきりだった。ただ、被疑者をはねて逃走した盗難車については「今夕、多摩川上流の河川敷に乗り捨てられているのを発見。現在、残留物について調査中。なお、極楽通りに設置された防犯カメラの映像から、運転席に座っていたのは目出し帽をかぶった人物」と発表されたのだけが新しい情報だった。

 日曜日から月曜日に曜日が変わる頃、東西大学病院上空にヘリコプターが飛来した。二晩続けての張り番にウトウトしていた記者連中も、その轟音にはさすがに目を覚まして空を見上げた。煌々とした光の中にドクターヘリが浮いている。
「急患だな」と誰かが呟いた。
「離島からかな」
「医者ってのも因果な商売だねえ。昼でも夜でもお構いなしだもんな」
「俺たちと同じだな」
「年収の額は桁違いだけどね」
「ここの院長とは二桁違うかもしれないぜ」
「たしかに。しかしあの演説には参ったよなぁ。ふつうあそこで一席ぶつか?」
「ふん、将来は政治家にでもなるつもりなんじゃないか?あれで全国に顔は売れたからな」
「そう言えば、あの院長出てきたか?」
「いや、見ていないな。裏門から出たかもしれない。それか、俺たちが張り込む前にさっさと帰っちまったか」
「いいよ、別に。用はないし」
「だな」
 記者たちが雑談している間に、ドクターヘリは病院屋上のヘリポートに着陸して、地上からは見えなくなった。ローター音が次第に静かになっていったが、ものの1分ほどでまた轟音とともに舞い上がり、夜空の向こうへ飛び去っていった。都会の夜に静寂が戻った。

 同じ頃、白拍子は池端に呼び出されて院長室へ向かっていた。記者会見の後すぐにあの患者のもとに取って返し、いまも懸命に脳圧を下げる処置を行っていたところだ。記者会見では一分の隙もないエリート医師の姿を披露していた白拍子だが、いまは髪も乱れて顔にも疲労の色を滲ませている。
 何の用かと急いで駆けつけてみれば、池端は椅子に深々と身を沈めてテレビを観ていた。よく見ると、先ほどの記者会見の録画であるらしく、画面にはちょうど熱弁をふるう池端が映し出されていた。
「やあ、来たかね、白拍子君。なあ、どう思う?私はもうちょっと東西大学病院の素晴らしさについてアピールしたほうがよかったんじゃないかな。安井が途中でぶった切ってしまったんだよ。君ももっとしゃべりたかったんじゃ……」
「院長」
 今度は白拍子がぶった切った。
「ご用件は何でしょうか。私はあの患者の治療の途中なのですが」
「ああ、そうだったな」
 池端は不承不承に再生を止めると、おもむろに椅子を白拍子の方に回転させた。
「あの患者の容態はどうかね。今夜のうちに何も起こりそうにないなら、私はもう帰ろうと思うのだが。なにしろ昨夜も帰っていないのでね。いちおう主治医の君の報告を受けてからと思って、来てもらったのだ」
 ムラムラと怒りがこみ上げてきて、白拍子は目の前のこの男の顔をめちゃくちゃに殴ってやりたくなった。ふざけるな!そんなことなら、自分からその短い脚で集中治療室までやって来い!何もできないくせに自分だけ帰る算段か!この無能な俗物が!頭の中でありとあらゆる雑言が渦巻いたが、なんとか手を出すことだけは堪えた。
 しかし、どうしても聞き捨てならない一言があった。憤りで目が眩みそうになる一言が。
「今夜のうちに何も起こりそうにない、とはどういう意味でしょうか」
 低く絞り出した声が震えているのが自分でもわかる。
 池端はきょとんと白拍子を見つめると
「どう、って。今夜はもちそうか?という意味に決まってるじゃないか」
 と言った。
 ここに至って白拍子はキレた。院長のデスクにバンと両手をつくと、池端に食ってかかった。
「いったいどういうご料簡ですか、院長。現場は必死になってあの患者の治療に当たっているのです。昨日からこっち、誰もがフラフラになりながら頑張っているのですよ。それを、院長は最初に一度患者をご覧になっただけで、あとは知らん顔をなさっている。なおかつ、記者会見ではあれほど患者を救うと力説なさっていたのに、いまのお言葉はいったい何なのですか。患者はまだ死なないのかと言わんばかりではないですか。院長にはあの患者を救おうというお気持ちはないのですか。それよりなにより、私ではあの患者を治せないとお思いですか!」
 白拍子は一気に言いつのった。この男の機嫌を損ねたことでクビになるならそれでもいいと思った。凡庸で、うまく立ち回ることだけでのし上がってきたこの男の下で働くくらいなら、いっそのこと、この場で辞表を書いたほうがましだ。私は世界中の一流病院からオファーを受けている白拍子康彦なのだぞ。
 池端は白拍子のあまりの剣幕にしばらく呆気にとられていたが、やがてゆっくりと身体を起こすとじっと白拍子の顔を見つめた。それまでとは打って変わってゾッとするほど冷酷な目つきだった。
「実際、治せないだろう?」
 白拍子は言葉を失った。頭に上っていた血がザッと音を立てて引いた。何ということを言うのだ、この男は。それに、この目は何だ。すべてを見透かすようなこの目は……。  
 存分に白拍子を戦慄させてから、ふいっと池端が表情を和らげた。
「誤解するな、白拍子君。あの患者を治すことのできる医者など、世界中どこを探してもいないという意味だよ。あの患者は間違いなく死ぬ。なにしろいま生きているのが不思議なくらいなのだからな」
「し、しかし、院長は先ほどあれほど自信たっぷりにおっしゃったではありませんか。『当院で救えない患者はいない』と」
「ああ、言ったな。しかし『救えない患者はいない』とは言ったが『治せない患者はいない』とは言っていないぞ。いま、あの患者にとっての『救い』は何だと思う?死なんだよ、わかるか。想像を絶する苦しみから解放されて死ぬことなんだよ。考えてもみたまえ。奇跡的に彼が治ったとしても、彼は裁判にかけられて、結局は死刑が宣告されるだろう。死刑にするためにわざわざ彼を治す必要がどこにある?無駄じゃないかね。だったら、ここで死なせればいいじゃないか。それが彼にとっても『救い』になるんだよ。どうだ。『当院で救えない患者はいない』という私の言葉に間違いはないだろう?」
 得意げな池端の顔を見て白拍子は拍子抜けした。こんな男に、つい先ほど底知れぬ恐怖を覚えた自分が悔しくなった。
「詭弁でしたか……」
「そう思うのはかまわんがね。しかし、君にはあの患者をもう少しのあいだ生かしておく努力をしてもらわねばならんのだ。君も知っているだろうが、当院は“次世代高度先端医療構想”の中核機関に名乗りを挙げている。いまは、それがまさに指定されようという大事な時期だ。強力なライバル病院はたくさんある。それらの病院を蹴落とさなくてはならない今このときに、あの患者を死なせたりしたら大変な失点になるのだよ。なにしろこれだけ世間の注目を集めている事件の容疑者なのだからな。まあ、指定されようがされまいが私の地位はちょっと箔が付く程度で、あまりメリットはないんだが……。それでも病院自体の格は上がるからね。指定は受けておいたほうがいいんだ。」
 池端はおもねるような笑顔を浮かべて白拍子に近寄ると、声をひそめて囁いた。
「なに、あと一日か二日だよ。中核機関に指定されるまで生かしておいてくれればいいんだ。うちくらい設備が整っていれば、……なあ、できるだろう?期待しているよ、白拍子外科部長。いや、次期院長候補と呼んだほうがいいのかな」
 立ち上がって白拍子の肩をポンと叩くと、池端は帰り支度を始めた。
 白拍子はその場に立ち尽くしたままワナワナと身体を震わせていた。これまでの人生でこれほどの屈辱を味わったことはなかった。栄光と称賛のスポットライトを浴び続けてきた彼に、こんな俗物の手駒としていいように使われる状況が訪れようとは、想像すらしたことはなかった。
 たとえ患者が死んでも池端はケロリとしているだろう。それは白拍子のキャリアに傷がつくだけで、池端個人にとってはたいして痛くも痒くもないことなのだ。将来は政治家になるだとか、日本医師連盟の会長の座を狙っているだとか言われているこの男にとって、あの患者の存在は、もし助かれば儲けものというほどのことでしかないのだ。
 立ち尽くした白拍子が、部屋に鍵をかけるから君も出てくれと池端に言われたとき、デスクの上の電話が鳴った。あの患者に何かあったかと白拍子はドキリとしたが、それなら彼のポケットの院内PHSに連絡が入るはずだ。池端が引き返してきて受話器を取った。
「私だ。……なんだ、君か。こんな時間にどうした」
 うん、うん、と耳を傾けていた池端の顔が徐々に不審げなものになっていった。
「なんだって?いや、私は聞いていないぞ。……うん。……わかった。知らせてくれて助かった……うん」
 受話器を戻した池端はいささか当惑した面持ちで、安井かな、と呟いた。この男にしては真剣な顔つきをしているので、白拍子は先ほどまでのいきさつも忘れて、何かあったのですかと尋ねた。
「うん。いや、大したことではないのだがね。誰かがここにBJを呼んだらしいのだ。さっきドクターヘリから降りるのを偶然見たと、内科の看護師長が教えてくれた。おそらく安井の仕業ではないかと思うのだが……」
 白拍子は驚愕した。
「なんですって?!BJを呼んだ?!安井さんがなんだってあんな男を呼ぶのですか」
「あの患者を診せるつもりかもしれない」
「そんな……!あいつは法外な報酬で手術をする無免許医なんですよ!彼に患者を診させるなんて不法行為だ!それに、そんなことは当院のすべての医師に対する侮辱です!」
「ああ、我々のようなまっとうな医者にとっては許しがたい行為だな。だが、安井事務局長は当院が“次世代高度先端医療構想”の中核病院に指定されることを誰よりも望んでいるんだ。成功すれば、彼は理事になることが決まっているからな。安井はこれまで各方面に、とても大きな声では言えないような働きかけもしてきている。その努力を水の泡にしたくはないのだろう。藁にもすがる思いでBJを呼んだのかもしれない」
「そうですか。つまり、私は、院長に信頼されていないだけでなく、事務局長からはBJ以下、いや、藁以下の実力しかないと思われているということなのですね」
 吐き出すように白拍子が言った。誰も彼もにバカにされて、もう何もかもがどうでもよくなった。BJがしゃしゃり出てくる前に、あの患者をすぐにでも死なせてやろうかという思いが頭をよぎる。自分が何もしなければいますぐあの患者は死ぬのだ。“次世代高度先端医療構想”中核病院への期待なんぞぶっ潰してやろうか……。
 白拍子を怒らせることは得策ではないと思ったのか、池端は猫なで声でなだめた。
「いやいや、とんでもないよ、白拍子君。私は君には大いに期待しているのだよ、うん。それに、さっきも言っただろう。あの患者はいずれ死ぬ。万に一つも生き延びることはないよ。誰にも治せやしないんだよ。私の見立ては確かだ、安心したまえ」
 だから、それがバカにしているというのだ!と、池端への憎悪は更に増した。しかし患者の容態を思えば「必ず治します」と宣言することもまたできなかった。誰にも治せない。白拍子自身も心のどこかでそう思っていたのだから……。
ジレンマと怒りに目が眩みそうになったが、このまますごすごと立ち去ることは彼のプライドが許さなかった。池端の目論見どおりになどさせるものか!
 白拍子は、考え得る限りの反撃を試みた。
「院長。いま『誰にも治せない』とおっしゃいましたが……」
 白拍子は池端の目をのぞき込みながら言った。
「BJなら治してしまうかもしれませんよ。院長のお見立て違いにならなければよろしいのですが」
 そう言い捨てると、白拍子は足早に院長室を出た。
 それは白拍子自身も深く傷つく諸刃の剣のような言葉だった。しかし、池端にまだほんのわずかでも医者としてのプライドが残っているなら、この言葉は効くはずだ。
 ドアを閉めるときにチラリと見た池端が、まるでこの世の終わりを見たゴリラのように呆然としていたことに、少しばかり溜飲が下がった。 
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「顔のない男」 2

 安井事務局長はBJを特別個室に案内した。何かマズい状況に陥った政治家が適当な病名でしばらく入院するようなときにだけ使われる病室である。一般病棟の最上階に位置しているが、「関係者以外立入禁止」と書かれたドアの奥にあって、院内案内図にも載っていない極秘の部屋だった。室内には豪華な調度品が置かれ、一流ホテルのスイートルームと比べても遜色がない。
 ヘリポートから誰にも見られないようにこの部屋までBJを連れてきた安井は、ドアを閉めるとほっとした様子で如才なく挨拶をした。
「早速お越しいただいて恐縮です、BJ先生。しばらくはこちらにご滞在いただくことになりますので、何なりと……」
 BJが安井の言葉を遮った。
「すぐに集中治療室へ案内されるものと思っていたんですがね。患者は一刻の猶予もないのでしょう?」
 予定していた段取りと違う単刀直入な質問に、安井はへどもどした。
「はい、いえ、あの、いまは白拍子先生が懸命に治療に当たっていますので……。BJ先生には、その、つまり、患者がいよいよという状態になったときにですね、内密に、なんとか患者の命を救っていただきたいと……」
 BJがスッと目を細めた。安井を見下ろしたまま、黙っている。
 明らかに怒気をはらんだ沈黙だった。その目のあまりの迫力に、安井は身をすくませた。、周囲の気温が一気に10度ばかり下がったように感じられた。背中を冷たい汗が伝う。ガタガタ震えながら、か細い声を継いだ。 
「いえ、あの、つまりですね。BJ先生をお呼びしたのは私の一存でありまして……。池端院長も白拍子先生もご存じないことなのでして。……あの、……あの、すっかり事情をお話ししますので、どうぞお掛けください。どうぞ……」

 それから15分ほどもかけて、安井はなんとか事情を話し終えた。東西大学病院が“次世代高度先端医療構想”の中核機関に指定されるべく、これまで努力を続けてきたこと。いまはそのいちばん大事な時期であること。そこへ降ってわいたように厄介な患者が運び込まれてきて、何としてでも治さなくてはならなくなったこと。白拍子は懸命にやってくれているが、好転の兆しは見られず、どうやら白拍子自身にも治せる確信がなさそうであること。池端院長に至っては、病院と自身の売り込みができればよいのであって、ハナから治そうという気もないらしいこと、等々であった。
「それで、私の一存で、先生をお呼びしたのです。先生のご高名は以前から伺っておりましたので、なんとかその“神の手”で患者を治していただきたいと思いまして。しかし、まことに失礼ながら、先生は医師免許をお持ちではないとのことで……。院長や白拍子先生の手前、大っぴらにお迎えすることもできず、それに、病院はすっかりマスコミや警察に取り囲まれておりまして、彼らにわからないように先生にお越しいただきたかったわけでして。それでドクターヘリをお迎えにやったというですね……」
 BJは片手を挙げて、安井を制した。ここまで一言も口を挟まずに聞いてきたが、この調子でしゃべられたら、何時間かかるかわからない。
「だいたいのことは、わかりましたよ。しかしあんたも無理難題を言うね。ギリギリまで白拍子にやらせて、もうダメだってときに私に代われって?」
「え、まあ、そういうことでございまして……。何としても、いま当院において、あの患者を死なせるわけにはいかないのでして……。なにしろ、当院は“次世代高度先端医療構想”の……」
 BJは天を仰いだ。この男とは意思の疎通ができそうにない。
「安井さん。この話はなかったことにしていただきましょう。私はただの外科医でしてね、魔法使いじゃないんです。患者も診せてもらえないのに、いきなり手術なんかできませんよ」
 BJがソファからすっくと立ち上がったので、安井は慌てて彼を押しとどめた。
「いや、ちょっと、あの、お待ちください、BJ先生。患者の状態はですね。あちらのモニターで見られるようにしておきましたので。私のこのIDでアクセスしていただければですね、リアルタイムで映像も見られますし、患者のカルテも……」
 BJは安井が差し出したメモを受け取ると、窓際のパソコンの前に移動した。カチャカチャとキーボードを操作して、モニターに集中治療室のライブ映像を映し出させる。
「いま、先生をそこへお連れするわけにはいかないのでして。なにしろ、先生がこちらにいらっしゃっていることは、私しか知らない秘密なのでして……」
 安井が後ろからくどくどと言いつのっている。BJは画面を食い入るように見つめている。
「それから、報酬の件なのですが……。お電話さしあげたときに提示いたしました1千万円はですね、いよいよ先生があの患者を治療なさる段になってから起算するということで……、ええ、つまりですね、こちらといたしましては、現時点ではまだ先生に正式な依頼はしていない状況ということになるわけでありまして……。まあ、言うなれば成功報酬というような意味合いになるかと思いますけれども、その点をお含みおきいただければと思っているような次第でして……。も、もちろん、その間はですね、この部屋を自由に使っていただいて結構でございまして、なんでもご用命をですね……」
「安井さん」
「は、はいッ」
 安井はその場で小さくぴょんと飛び上がった後、直立不動になった。固唾を飲んでBJの次の言葉を待つ。
「今夜は徹夜になりそうだ。早速だが、コーヒーをブラックで頼みます。ポットにいっぱい詰めて持ってきてください」
 承知いたしましたッ!と叫ぶと、東西大学病院事務局長はホッとしたような顔で部屋を飛び出していったのだった。

 月曜日の朝刊各紙1面には「顔のない男の凶行」の大見出しが躍った。「容疑者をはねた盗難車を多摩川沿いで発見」の記事はそれよりかなり小さい扱いとなった。他に大きな事件もなかったため、社会面もほぼこの事件の記事で埋め尽くされた。また、テレビのワイドショーも繰り返しこの事件を扱い続けた。警察OBや犯罪心理学者などがゲストコメンテーターとして得々と持論を繰り広げたが、結局は「真相を明らかにするためにも、容疑者の回復が待たれます」という点に落ち着くしかなかった。
 一方、ネットの掲示板やSNSでも様々な書き込みが飛び交った。
「顔がそれだけつぶれるって、こわくね?」
「今日、無断欠勤した同僚がいるんだが、犯人と背格好が似ている件」
「うちのおじいちゃんは昔ひき逃げ事故にあったのですが、病院をたらい回しにされて亡くなりました。殺人犯はすぐに病院に入れてもらって治療も受けられて……。おじいちゃんより殺人犯のほうが大事にされている気がします」
「白拍子センセー、LOVE」
「どうせ、誰でもいいから人を殺してみたかったとか言うに決まってる」
「誰が治療費出すの?税金?」
「きょう、あの商店街に買い物に行ってみる」
「殺人犯を治療してやる必要なんかないっしょ」
 云々かんぬん。

 深夜1時に病院を出て帰宅した池端は9時に出勤してきた。正門を出るときも入るときも、報道陣からは見事にスルーされた。白拍子にあれだけ嫌味を言われたせいもあり、すぐに患者の様子を見に行ったが、白拍子からは無言で睨まれ、他の誰からも相手にされなかったので、これ幸いとばかりに院長室に落ち着いた。患者はまだ生きていた。
 さて、と、しばらく考えてから、池端は安井に電話をかけて、院長室に来るように言った。
「おはようございます、院長」
 と、明るく部屋に入ってきた安井だったが、BJを呼んだだろうとズバリ言われて絶句した。
 病院長であるこの私に内緒でそんなことをしたのかとネチネチ責められ、報酬は1千万と言うと、おまえはバカか、と怒鳴られ、東西大学病院の名誉にかけてあんなモグリには絶対に手出しさせるなと念を押され、いえ、その点についてはまだ正式に依頼をしたわけではありませんのでと手柄のように話した。
 池端はつけっぱなしのテレビに目をやった。昨日の記者会見の模様が流れている。
「安井君。この件について私はまったく何も聞かなかったからな」
 池端がテレビを観たままボソリと言った。安井はしばしその言葉の意味を熟考し、池端が黙認したのだと了解して深々と頭を下げた。
 しっしっと犬を追うように手で払われたので、安井はほっとして院長室を辞した。

 夜を日に継いで白拍子の奮闘は続いていた。
 次々にできる塞栓の処置をしながら、彼の脳裏には昨夜自分が池端に向かって吐いた言葉がこびりついていた。トロトロと仮眠を取っても、耳元に自分の声が聞こえて飛び起きた。
(BJなら治してしまうかもしれない、だと?!)
 安井事務局長がBJを呼んだかもしれないことを、彼は誰にも話さなかった。あの時点で確かな情報とは言えなかったし、そんなことは彼のプライドが許さなかったのだ。
(この患者は絶対に渡さない!)
 池端や安井の思惑などどうでもいい。だが、BJにだけは負けたくなかった。その意地が、いまの白拍子を動かしている原動力だった。

 表面上は何の変化もなく、月曜日が過ぎていく。
 安井は自ら朝昼晩とBJに食事を運び、午後10時にはコーヒーを入れたポットを運んだ。いつ部屋を覗いても、BJはパソコンにかじりついていた。ベッドにはカバーがかかったままで、横になった形跡もなかった。食事は何でも院外からお取り寄せしますと言ったのだが、面倒くさそうに普通の病院食でいいと言われた。何か必要なものは、と尋ねても、何もないから出ていってくれと追い払われた。改めて釘を刺す必要もなく、この無免許医は軽々しく部屋を出たりしないと安井は確信した。

 深夜、モニターを凝視し続けたBJの目がさすがに悲鳴をあげ始めた。シャワーでも浴びようと立ち上がったとき、コツコツとドアをノックする音が聞こえた。なにしろこの部屋には安井しか来るはずはなかったので、もう用はないから帰りなさいと言ってやるつもりでドアを開けると、そこには思わぬ人物が立っていた。
「友引警部……」
「よお、先生。なかなか豪勢な部屋にご入院だな」
 ニヤリと笑った警部はBJの身体の横をすり抜けてずかずかと部屋に入ると、どっかりとソファに座って珍しそうに部屋を見回した。タバコに火をつけると、突っ立ったままのBJに向かって、まぁ座れというように手招きするのも憎らしい。
「ここは禁煙なんだがね」
 BJは精々皮肉っぽく言うと、仕方なく対面に座った。
「ちゃんと携帯灰皿も持ってるんだ。かたいこと言うな」
 警部はさらに左右のポケットから缶ビールを取り出すと、一本をBJに勧めた。長期戦の構えである。要らないと身振りで示して、BJが問うた。
「私に何か用かい。酒盛りの相手なら他所で探してくれ。それとも逮捕令状でも持ってきたかね。それに、そもそもどうやってここまで入ってきたんだ」
「令状なんぞ持ってやしない。ちょいと先生に聞きたいことがあって来ただけだ。それから、正義のおまわりさんはどこにだって現れるってことを覚えとけ」
 ニコニコと笑顔を見せるが、強面でそれをやられてもあまり愛嬌はない。
 BJが仏頂面で黙っていると、いまこの病院は警察の監視下に置かれているようなものだぞ、と語り出した。
「なにしろ重大事件の被疑者がいるんだからな。俺もずっと詰めていたんだが、安井事務局長の姿がちょいちょい見えなくなるのが妙だと思ってな。それとなく院内で聞き込みをしてみたと思え。そしたら、意外な情報が耳に入ってきた。昨夜、誰かさんがドクターヘリで派手な登場をしたっていうじゃないか」
 友引警部は愉快そうに笑った。
「だが、その後誰もおまえの姿を見ていない。とすれば、おまえがいるのはこの部屋しかない。安井はおまえの世話をしているんだとピンときてな。確かめに来たってわけだ。大当たりだったな」
 と、得意満面な顔をしていたが、BJが面白くもなさそうな顔をして黙ったままなので、ゴホンと咳払いをすると、ふと真顔になった。
「この仕事、請けるのか」
「何の話だ」
 BJはしらばっくれる。
「とぼけなくてもいい。安井事務局長から依頼された仕事のことさ。富士見商店街無差別連続殺傷事件の被疑者の手術をするのか、って聞いてるんだ」
 BJと友引警部の視線がぶつかり合った。お互いの腹の底を探り合う。
 ややあって、BJはひとつ大きく息を吐いて、緊張を解いた。友引警部の眼差しの中には真摯な色があった。その目は、正直に話してくれ、と言っている。
「請けるもなにも、私はまだ正式に依頼をされていないんだ」
 友引警部はソファに背を預けると、思案顔で腕組みをした。
「つまり、ここの医者のメンツがあるってことか」
「そういうことだな。なにしろ私はモグリなんでね」
「だが、ここの医者にあの被疑者が治せるのか?メンツだの何だのと言っている場合じゃないだろう」
「私に言われても」
 BJは肩をすくめてみせた。
 う~ん、と呻って、友引警部は眉根を寄せた。チラリとBJを見た眼差しがいかにももの言いたげだ。BJは小さく首を傾げて促した。正直に話せよ、警部。
「この事件には裏があるんだ」
 友引警部はビールを一口あおると、身を乗り出して小声で語り始めた。 
「この事件、単なる通り魔事件なんかじゃない。あの姓名不詳の被疑者は大沢健吉を狙ったんだ。そう、二番目に刺されて死んだ被害者だよ。大沢の爺さん、好々爺の顔をしているが、とんだ食わせ者でな。政財界の大物や名士の弱みを握って強請るのが商売なんだ。金品を巻き上げることもあるが、その気になれば日本の政治や経済界だって自由に動かすことができるほどの力を持っている。おそらく警察内部にも奴に脅されていた幹部はいたはずだ。これまで俺たちが大沢を捜査しようとすると、どこからともなくストップがかかったからな。まあとにかく、大沢健吉というのはそういう化け物みたいな男だったと思ってくれ」
 BJはテーブルに置かれた警部のタバコを一本盗んで火をつけた。
「それで?」
「それくらいの男だから、恨みだって盛大に買っていたはずだ。強請られていた誰かが大沢を抹殺しようとしても不思議じゃないんだ。大沢もそれはわかっていて、滅多に外出することはなかったし、内でも外でも身辺にはいつもボディガードを侍らせていた。最初に腹を刺されて死んだ山本則夫もそういう連中のひとりだよ。山本が運転していた車は防弾ガラス仕様なんだぜ。それぐらい用心していたのに、散髪屋から出て車に乗ろうとするわずか数メートルの間で殺られちまったってわけだ。ちなみに、あの散髪屋の隠居というのは大沢の幼馴染でな。散髪している間に昔話をするのが大沢の楽しみだったんだとさ」
「そんな話が、テレビでも新聞でもまったく報じられないのはどういうわけなんだ」
「大沢に強請られていた各界の大物たちが、躍起になってあちこちから抑えてるんだよ。マスコミが大沢にスポットライトを当ててみろ。自分たちのいろんな秘密やスキャンダルが明るみに出るおそれがある。バレたら困る連中がいっぱいいるってことだ」
「だが、警察はちゃんと大沢健吉殺人事件として捜査しているんだろう?」
 警部は大きなため息をついた。
「それがそうじゃないから弱ってるんだよ。今回も上から圧力がかかってる。被害者のほうをつついちゃいけないことになった。被害者のプライバシーを守るとかなんとか、もっともらしい理由をつけてな。だから、このままだと、ちょいと頭がいかれた男がやらかした通り魔事件として処理されてしまいそうなんだ。大沢はただのかわいそうな被害者の一人ってわけだ」
 BJはフンと鼻で嘲笑った。
「それで?警部はどうしたいんだ?」
「あの被疑者を事情聴取して、大沢との関係を探り出したい」
「大沢をつついちゃいけないんだろう?」
「ああ、大沢を直接ほじくり返すことはできないよ。だが、被疑者から殺人の動機を聴取することは、真っ当な捜査手順だぜ。俺は、あの被疑者は誰かから大沢殺しを依頼されたのだと考えている。だから洗いざらいしゃべってもらいたいんだよ。奴の証言は取っ掛かりになるんだ。奴を雇った奴がわかれば、そいつが何故大沢を殺そうとしたかを探れる。大沢に辿り着けるんだよ。だが、俺の目的は大沢の悪事を暴くだけじゃないぞ。さらにその上の巨悪を暴きたいんだ。大沢が強請っていた多くの相手とその内容を暴きたいんだ。きっとこの国を揺るがすくらいの秘密がゾロゾロ出てくるに違いない。甘い汁を吸ってこの国のトップにふんぞり返っているような奴らをお白州に引っ張り出したい。俺はそういう捜査をしたいんだよ」
「あなたは正義のおまわりさんだったのですね」
「……なんだよ、その棒読みは。バカにしてるのか?笑いたきゃ笑えよ、畜生」
 気色ばんだ警部を面白そうに眺めてから、BJが言った。
「つまり、こういうことか。あの患者は誰か……『X』としよう、Xに大沢を殺すように依頼された。警部はまずこのXを探り出したい」
「そうだ」
「次にXを取り調べして、大沢にどんな弱みを握られていたのかを知りたい」
「そうだ」
「Xの証言が真実かどうか、次に大沢の側を捜査する」
「そこが肝心なところだ」
「大沢を調べれば、Xだけでなく多くの大物を強請っていたことも明るみに出るだろうと、そういうことなんだな?」
 警部はパチパチパチと拍手をして、そのとおりだ、と言った。ずいぶん時間がかかりそうな話だと、BJは思った。
「ひとつ、根本的なことを訊くが……」
「何だ」
「この事件が単なる無差別通り魔事件ではなくて、誰かに雇われたあの患者が意図的に大沢を殺そうとした事件だと、警部がそう考える根拠は何なんだ」
「あの被疑者がひき逃げされたという事実さ。あんな偶然があると思うか?大沢を殺して用済みになった被疑者の口を、今度はその雇い主……Xが、ふさごうとしたと考えるほうがよっぽど自然だろうよ」
 なるほどね、とBJは腕を組んだ。筋道は通っているように思われた。
「だからよぉ。あの被疑者が死んじまったら元も子もないんだよ。すべてが闇に葬り去られてしまうんだ。大沢に強請られていた奴らが大喜びするだけなんだ。そんなことが許されていいと思うか?あの被疑者の供述は巨悪を暴く突破口になるんだ。どうしても奴の供述が欲しい。だから俺は……、おまえに奴の手術をしてもらいたいんだよ」
 友引警部に真っ直ぐに見つめられて、BJは思わず目を伏せた。警部はこの最後の一言が言いたくてわざわざここまで来たのだろう。自分の腕を信用してくれる警部の気持ちはわかったが、しかし、いまはそれにこたえられる状況ではなかった。BJはまだ正式に手術の依頼をされていなかったし、実際に患者を診てもいない。あの患者がはたして供述できるまでに回復するかどうかはBJにもわからなかったのだから。
 警部はしばらくBJを見つめていたが、彼の心中を察したのだろう、ボリボリと頭を掻くと言った。
「俺も焼きが回ったもんだ。モグリの医者に向かって、手術をしてくれなんて、なぁ……」
「警部……」
「いいって。無茶を言ってすまなかったな。おまえがここにいるとわかって、ちょっと話をしたくなっただけだ。……さて、と。正義のおまわりさんはそろそろ帰るとするか」
 警部は両膝をペシリと叩いてソファから立ち上がったが、ああ、そうだ、と思い出したように言った。
「おまえも身辺には気を付けるんだぞ。あの被疑者が助かることを望んでいない奴らにとって、おまえは邪魔な存在だ。もしもおまえに出番が回ってくるようなことがあれば、どんな手に出てくるかわからんからな」
 それだけ言うと、友引警部はひらひらと手を振りながら、じゃあな、と部屋を出ていった。テーブルの上にタバコとビールだけが残った。


 火曜日の朝。集中治療室は緊迫の度合いを増していた。頸椎の損傷により横隔膜が機能しなくなり呼吸麻痺が起こったからである。それまで辛うじて自発呼吸ができていた患者は、気管を切開され人工呼吸器をつけられた。容態は明らかに悪化していた。
 白拍子は自分の不運を呪った。何故この患者はここに運ばれてきてしまったのだ。何故蘇生措置を施したりしたのだ。何故この患者は蘇生したのだ。何故自分にこの役割が回ってきてしまったのだ。何故。何故。何故……。白拍子は椅子に座って項垂れた。

「いかがでしょうか。本日あたり、良い知らせをいただけるものと思っているのですが……」
 安井は朝からあちこちに電話を掛けまくっていた。一分一秒でも早く“次世代高度先端医療構想”中核病院の指定が欲しかった。
「そうですか。内定したというようなお話だけでも結構なのですが、……はあ、さようでございますか。ではあともう一押しのお力添えをですね、なにとぞよろしくお願い申し上げます。……はい、どうも失礼いたしました」
 安井も必死になっていた。

 患者がそのまま小康状態を保ったのはまさに奇跡的な出来事だった。白拍子はその奇跡に助けられた。次にくるであろう悲劇的事態の予感におびえながら、彼は一時も患者の傍を離れなかった。この患者は誰にも渡さない!

 昼過ぎ、ある三流スポーツ新聞が一つの短い記事をネット上にアップした。
「独占スクープ!『富士見商店街無差別連続殺傷事件』の容疑者をひき逃げした車両からDNA検出!
この車両は事件当日の午前中に都内のパチンコ店の駐車場から盗まれ、翌日に多摩川河川敷で発見されたが、車内に捨てられていたガムの一つに付着していた唾液から検出されたDNA型が、『富士見商店街無差別連続殺傷事件』の容疑者のDNAと一致したことがわかった」

 事件の続報に飢えていたワイドショーは、軒並みこのニュースに食いついた。
「どういうこと?犯人は自分で自分をはねたってこと?」とコメンテーターの女芸人が言う。
「アホかおまえは。犯人は車とぶつかった瞬間にガムを車に投げ込んだんや」と先輩芸人が言う。
「何のために?」と総ツッコミが入る。
「真面目に話しません?」と司会者。
「つまり、この車を盗んだのはあの容疑者だったということでしょう」と経済評論家。
「自分が盗んだ車にはねられた?じゃあ、誰が運転していたんでしょう」と司会者。
「あの被疑者と誰かもう一人が車を盗んだ。ガムはそのときに捨てたものでしょう。その後、あの被疑者は富士見商店街で事件を起こし、もう一人が運転する車で逃げようとした。ところが、何かの手違いで、その車にはねられてしまった。仲間はそのまま逃げてしまったと、そういうことかもしれませんね」と元弁護士。
「では、この事件は周到に計画されたものだったということになりますね」と、司会者が弾んだ声で言った。

 午後10時。安井はBJにコーヒーを運んだ。
「顔色がすぐれないね。良い知らせは来なかったかい」
 BJに言われて、安井は、はい、と肩を落とした。
「患者は低め安定でなんとか持ちこたえている感じだな。だが、このままだと、患者より先に白拍子がぶっ倒れるぞ。誰か代わってやれる医者はいないのかい」
「それが、白拍子先生ご自身が、交代を望んでおられないのです。プライドをかけてやっておられるようでして……」
「ふうん。プライドねえ……」
 BJは熱いコーヒーを一口飲むと、言った。
「たぶん、明日は忙しくなるぜ。“次世代高度先端医療構想”のほうじゃないかもしれないけどね」
 安井は、はっとしたようにBJを見た。
「そ、そうですか。そういう……ところまで来ているのですね」
「ああ。勝負は明日だ」
 BJはきっぱりと宣言した。

「顔のない男」 3

 安井が蹌踉とした足取りで部屋から出ていった後、BJはこっそりと部屋を出た。エレベーターは使わずに、誰にも見られないように注意しながら階段で1階まで降りる。階段脇にズラリと置かれた自動販売機で“おしるこ”を選んだ。商品が出てくるガタンという音が誰もいないエントランスホールに響いた。近くの椅子に腰かけてゆっくりと飲む。これくらいの自由は許されてもいいだろう。缶を捨てると、また階段を使って5階まで上がった。
 5階から上は病棟である。消灯時間も過ぎ、廊下はほの暗く人影もない。しばらくそこに佇んでいると、そろそろ寝入った患者のいびきや寝言に混じって、苦し気な唸り声や、間断なく誰かの名前を呼び続ける単調な声も聞こえてくる。
 BJは子どもの頃のことを思い出していた。不発弾の爆発に巻き込まれて母を亡くし、自分はなんとか九死に一生を得たものの身体は動かず、手足にスリッパをはいて朝から晩まで病院の廊下を這いずり回っていた頃のことを。消灯時間を過ぎてからも看護婦の目を盗んでは薄暗い廊下を這っていた。そういうとき、各病室からはやはりこんな声が聞こえてきていた。
 どんなに時代が移っても、どんなに医療が発達しても、人間は病気やケガに苦しむ。医者はなんのためにあるのかと思うこともある。だが、それでも……と、BJは思う。人にはきっと生きている意味がある。自分があの事故から生還できたのだって、そこにはきっと何かの意味がある。自分が外科医になったことにも、きっと意味はあるはずだ。
 BJは一つの病室のドアを開けた。人工呼吸器をつけられた患者がひとり眠っていた。暗い室内にバイタルモニターの画面だけが明るい。BJは規則正しい呼吸と心拍を確かめ、しばらく様子を診てから、また静かに階段を上っていった。

 自室のドアを開けたとき、BJは中に人の気配を感じた。安井が戻ってきたか、それともまた友引警部が来たか……。
 しかし、そこにいたのは長い銀髪の男だった。まるで自分の部屋にいるかのようにくつろいで、ゆったりとコーヒーを飲みながらモニターを見ている。
「ドクター・キリコ!」
「久しぶりだな、BJ。なかなかいい部屋が取れたじゃないか。夜景は綺麗だし、ルームサービスのコーヒーも美味い」
 昨夜の警部と同じようなことを言う。BJは、自分がここにいることを日本国民全員が知っているんじゃないかという気がしてきた。
「ここはツインルームじゃないぜ。どうやってここに入ってきた」
「ドアを開けて」
「どうやってここまで来たのか聞いてるんだ」
「右足と左足を交互に前に出して」
 どうやら真面目に答える気はないようだ。
「病院の周りにはマスコミと警察がいっぱいいたろう」
「そんなことか。蛇の道は蛇さ。死神はどこからだって忍び込んでくる」
 Déjà Vu. どうやら、正義のおまわりさんと死神は似たようなものらしい。相手にするのも面倒くさい。BJはソファに座って尋ねた。
「で?オレに何か用なのか」
「おまえ、この仕事請けるのか」
 ブラボー。台本どおりだ。次はタバコと缶ビールが出てくるぞと思ったが、それはないようだ。
「それがおまえと何の関係がある」
「おまえ次第で俺の仕事が増えるかもしれない、と言ったら?」
「なんだって!?」
 BJは思わず腰を浮かした。キリコはコーヒーカップを二つ持ってソファに移ってきた。一つをBJの前に置くと、対面に座って悠然と足を組んだ。
 BJは食ってかかった。
「あの患者を殺すつもりなのか!」
「『安楽死』と言え。何度言えばわかる」
「永遠にわかるつもりなどない!おまえのやっていることは人殺しだ。おまえ医者なんだろ。ちゃんと医者の仕事をしろ」
 キリコのまとっている「気」が剣呑なものになった。モニターを指差しながら言う。
「おまえ、あの患者を見ていて何も感じないのか。おまえ、それでも医者か。彼は苦痛しか感じていないぞ。苦痛以外、何もない世界にいるんだぞ。苦しんで苦しんで、やっと待ち焦がれた死が訪れようとすると、そのたびに無理矢理この世に引き戻される。彼が苦しむ時間は更に長引く。そうしているのは医者だ。これがおまえの言う医者の仕事か?」
「医者は患者を治そうとしているんだ。苦しませようとしてやってるんじゃない。それに、おまえはあの患者が死にたがっていると言うが、オレの目にはあの患者は生きたがっているように見える。おまえの勝手な思い込みで患者を殺すのは許さんぞ」
「それこそがおまえの思い上がりじゃないのか。生き物は死ぬときには自然に死ぬもんだ。あの患者が死ぬべきときは『いま』だ。それを無理矢理生かす権利がおまえにあるというのか。おまえは神か」
「ただの外科医だ。だがオレが神じゃないように、おまえだって死神じゃない。死ぬべきときを決めるのはおまえじゃない。患者を死なせる権利なんか、おまえにはないんだ」
 BJとキリコはにらみ合った。
 これまで幾度となく繰り返されてきた会話だった。いい加減飽き飽きするが、それでもバッタリ顔を合わせてしまえば、二人の間にはこの会話しかない。お互いの仕事の重みもわかろうとしないではないが、かと言っておのれの信念を譲る気もさらさらない。一人の患者を間に挟んで、自分こそが患者を救うのだと、幾度となく生と死の代理戦争を繰り広げてきた。
 だが……、とBJはふと違和感を覚えた。これまで、いつだって突っかかっていくのはBJの方だった。普通ならキリコはBJを避けるはずなのだ。BJが手術をする前に、あるいは手術を終わらせてからでも、キリコにはいつだって人知れず仕事を遂行するチャンスはあるのだから。なにもわざわざ文句を言われるのを承知でBJの前に姿を現す必要はないのだ。
 BJは一度だけこんなケースがあったことを思い出した。55年間眠り続けている患者の扱いに困った病院が、BJとキリコの両方に声を掛けたときのことだ。あのときキリコはBJを待っていた。そうだ、あのときキリコはどう思っていたのだったか。患者を死なせてよいものかどうか迷っていたのではなかったか。
 きょうキリコがここに来た理由。それもまた……。
 BJの脳裏にひとつの疑問が浮かんだ。
「おい、ちょっと待て、キリコ。おまえに仕事を依頼したのはいったい誰だ」
 キリコは片方の口角をちょっと上げてみせた。
「クライアントをそう簡単に漏らすと思うか。それよりも、まず俺がおまえに問う。おまえなら、あの患者を救ってやれるのか。その自信はあるのか」
 死神の化身と呼ばれる男の色素の薄い目が、ひたとBJを見据えた。さっきまでの言葉の応酬はただの竹刀での稽古試合だった。この視線を外さずにいることができるか、この瞬間こそが真剣勝負だった。患者が生と死の間で長いあいだ宙ぶらりんになっている。キリコが死なせて救うのか、それともBJが生かして救うのか。  
 BJは自分でも不思議に思うほど冷静にキリコの視線を受け止められた。大丈夫だ、オレはこの目をそらさずにいることができている。そう気付くと、自分自身にカチリとスイッチが入ったような気がした。
「オレなら救える。自信も覚悟もある」
 という言葉が自然に口をついて出た。
 キリコは言葉の真偽を確かめるようになおもしばらくBJの目を見つめていたが、やがて大きく息をついた。身体から死神の「気」がスッと消えた。学ばない奴だと言わんばかりの表情で、両手を横に広げて肩をすくめてみせる。それから、上着の内ポケットから一通の封書を取り出すと、テーブルの上を滑らせて寄越した。
 白い封筒の表にはキリコの住所と名前、上部に赤く線が引かれ「速達」の文字がある。裏返すと、差出人が「G県T郡U村××× 中里千代」とある。中には便箋が一枚入っていた。BJが、読んでも?と目で問うと、キリコは黙って顎をしゃくった。

「キリコ先生。
 先日、富士見商店街で通り魔事件を起こしたのは、私の孫の中里茂です。あんなことをしでかしてしまった孫はもう生きているべきではありません。どうか殺してやってください。お願いします。 中里千代」

「お祖母さんが、孫を……?」
 BJは信じられない思いでつぶやいた。昨夜の友引警部の話から、謎の人物Xがあの患者を再び殺そうと試みる可能性はあると思っていた。だが、まさか祖母が孫を殺してくれとキリコに依頼してくるとは……。
「ああ。なかなか優しいおばあちゃんだと思わないか?」
「ふざけるな!おまえはこんな依頼を請けようとしていたのか。見損なったぞ、キリコ!」
 思わずテーブル越しにキリコの胸倉を掴んだBJの腕を、キリコは難なく払いのけた。
「腕っぷしなら俺のほうが強い。落ち着いて俺の話を聞け、BJ」
「言い訳か」
「いいや、なかなか興味深い話だぜ。いい子にしてたら話してやる。知っておいたほうがいいと思うがな」
 キリコは乱れたチーフタイを直しながらニヤリと笑った。畜生、煮ても焼いても食えない奴だ。BJはドサリとソファに腰をおろした。
「もったいぶらずにさっさと話せ。聞いてやる」

 キリコはすっかり冷めたコーヒーを一口飲むと語り始めた。
「俺はおまえと違って、ほいほいと依頼を請けるようなことはしない。なにしろ神聖な仕事をしているんだ、間違いがあってはならないからな」
 カチンとくることを言われたが、ここは黙っておいた。
「その速達は今朝一番に届いたものだ。消印から、昨日の午前中にG県M市の中央郵便局に持ち込まれたものとわかる。で、俺はそこに書かれている差出人の住所に行ってみた」
「おまえさんの仕事はヤバいからな。実際に依頼人を確認したかったというわけだ。で、会えたのか」
「水の底だった」
「……水の底?」
「ああ。G県T郡U村は8年も前にダムの底に沈んでいたよ。道理でカーナビが妙なところを示していたはずだ」
 BJは手にしている手紙が途端に気味の悪いものに思えてきた。
「それで、最寄りの交番へ行って話を聞いた。U村の全住人は10年くらい前には他所への移住が終わっていたそうだ。中里千代という女性のことも調べてくれた。U村に孫の茂と二人で住んでいたのは事実だった。茂の両親はいないらしい。茂は地元の中学を卒業するとすぐに東京へ出ていったので、その後は一人暮らしをしていた。そのうちにダムができるという話が決まって、千代ばあちゃんはそれを機に隣の市の施設に入ったのだそうだ」
 交番でよく不審者扱いされなかったな、と言おうと思ったがやめておいた。
「それで隣の市まで行ったのか」
「行ったさ。だが、尋ね当てた施設というのが、グループホームだった」
「……ということは……」
「ああ。千代ばあちゃんは認知症だった。職員が連れてきてくれたばあちゃんは、チワワみたいに小さくて可愛いばあちゃんだったぜ。おいくつですかと尋ねたら、恥ずかしそうに、20歳になります、と答えたよ。職員の話では、もう自分の名前もあやふやらしい。孫がいるなんて言っても、おとぎ話だと思うだろうな」
 BJは手紙を見た。
「じゃあ、誰がこんな手紙を……」
「さあな。そこまではわからんよ。とにかく、俺がきょう一日駆けずり回ってわかったことは、その手紙は千代ばあちゃんが書いたものではなくて、どんなことをしてでもあの患者を亡き者にしたい誰かが書いたということだけだ」
「あの患者が『中里茂』という男かどうかも、本当のところはわからないんだな。日本国中、誰の名前を騙ってもよかったわけだ」
「いや、あの患者は中里茂だ」
「何故わかる?」
「千代ばあちゃんは福耳だった。モニターで見る限り、あの患者も福耳だ」
「おまえさん、もう一回中学校で遺伝の勉強からやり直せ。祖母が福耳でも孫が福耳とは限らん」
「いや、中里茂は福耳なんだ」
 キリコは大事そうにポケットから一枚の写真を取り出した。
「俺の彼女の写真だ。隣の中学生が邪魔なんだが……」
 BJはキリコの手から写真をひったくった。そんなものを持ってるならさっさと見せろ!
 写真には60代くらいの女性と学生服を着た男の子が写っていた。女性は屈託のない笑顔を浮かべて正面を向き、男の子は照れたような顔を少し女性の方へ向けている。顔の輪郭や目鼻立ちがよく似ていた。写真の裏には「茂、中学校卒業式」と書かれてある。
「千代ばあさんと茂なんだな。なるほど茂も福耳だが……」
 BJは写真を持ってモニターの前に移動した。キリコもついてきた。上から俯瞰する画面を患者の頭部にズームアップする。患者の左耳は顔面を覆った大きなガーゼに隠れてよく見えない。だが、右耳は写真の中学生の耳の形によく似ていた。
「耳全体の輪郭と珠間切痕の深さがそっくりだろう」と、隣に座ったキリコが指で画面を指し示しながら言う。
「ああ。おまえ、さっきこれを確かめていたんだな。福耳だの何だのと揶揄いやがって」
「なにしろ彼女から100万円で買い取った大事な写真だからな。有効に使わないと」
「100万円?」
「ああ、あの速達便には、額面100万円の普通為替が同封されていたんだ。どこのどいつか知らないが、そのふざけた野郎は100万円というはした金で俺に人殺しをさせるつもりだったということさ」
 BJはキリコの顔を盗み見た。淡々と話しているが、相当怒っていることがわかる。神聖だと自負している自分の仕事を、単なる人殺しと見なされたのだから、キリコが怒るのも無理はない。100万円、ありがたく貰っておけばよかったじゃないか、と揶揄ったら、手が汚れる、と潔癖なところを見せた。
「それで、大事な年上の彼女にプレゼントしたわけか」
「差出人に返しただけだ」
 なるほど、表面上はそういうことになっている。BJはクスリと笑った。
 しばらく二人並んでモニターを見る。
「もう一つ訊いていいか」とBJが言った。確かめたいことがあった。
「何だ」
「おまえは千代ばあさんに100万円をプレゼントした時点で、こんな仕事はしないと決めていたんだよな。だが、さっきおまえはこう言った。『おまえ次第で俺の仕事が増えるかもしれない』と。報酬なしでもおまえは仕事をするつもりだったのか」
 キリコは、答える義理はないんだが、と、ちょっと考えていたが、やがて静かな声でこう言った。
「俺はプロだ。報酬のない仕事なんてそもそも仕事とは言わない。請けるわけがなかろう。だが、おまえを待っている間、この映像を見ていて気が変わったんだ。たとえどんな凶悪犯であっても、人間が人為的に無理矢理こんな状態に長く置かれるなんて、断じてあってはならないことだ。俺は医者としてそう信じる。だから、おまえの返答次第では、と思ったよ。もしもおまえが匙を投げていたら……とな。だが、おまえは、救えると言った。自信も覚悟もあると言った。そうだな?」
「ああ」
「だったら……」
 キリコは立ち上がってコートを羽織った。
「It’s your turn.」
 それだけ言うと、キリコは静かに部屋を出ていった。
 死神の化身はオレよりほんのちょっとだけ優しいのかもしれないと、BJは思った。

 水曜日になった。

「なんですって?!」
 午前10時。きょうも朝早くからあちこちに電話をかけていた安井が、悲痛な声を挙げた。はい、はい、と話を聞いていたが、やがて思いつめた表情で受話器を置いた。
 電話の相手はこう言った。
「“次世代高度先端医療構想”中核機関の指定は日延べになりました。選考委員の一人から、東西大学病院の例の患者の容態の推移を見てから決定しても遅くはないという意見が出て、委員全員がそれに同意されたのです」
 安井は拳でデスクを叩いた。ライバル病院の差し金であることは明らかだった。くそ!あれだけ金をばらまいて、委員はほぼ手中に収めたと思っていたのに、この期に及んで他の病院が更なる大金をばらまいたか!
 安井は部屋を飛び出すと集中治療室へ走った。患者!あの患者さえ助かれば!

 その集中治療室では白拍子が立ち尽くしていた。怖れていた事態が起こりつつあった。患者の血圧が低下し始めたのだ。やっと80台をキープしていたのが今朝は70台になった。いまも徐々に下がりつつある。もはや姑息的手段ではどうしようもなく、頸椎の手術をするほかはないが、この状態でそんな大手術などできるはずもなかった。もう打つ手がない……。
「白拍子先生!患者の容態は!治りそうですか?」
 息せき切った安井の問いかけに、白拍子は力なく首を振った。

 安井は意を決した。そのまま院長室に急行し、ノックをするのももどかしくドアを開ける。
「院長、お話があります」
 爪を切っていた池端は安井の顔をジロリと見ると、良い話ではなさそうだな、と言った。はい、と答えて、安井は先ほどの電話の内容を伝えた。
「ふむ。どこも必死で指定を勝ち取ろうとしているからな。あの患者もきょう一日はもつまい」
「はい、白拍子先生ももうどうしようもないと考えておられるようでした。院長……」
 安井は大きく息を吸い込んだ。
「もう他に打つ手はありません。BJに依頼しましょう」
 池端はフンと鼻で笑った。
「1千万をドブに捨てるようなものだぞ」
「いまから選考委員を買収するなら、その数倍の金が必要です。それにおそらくそんな時間は残されていないでしょう。イチかバチかの賭けです。患者が少しでも持ち直せば、それを大々的にマスコミに発表します。そうすれば選考委員も考え直すかもしれません。もちろんBJの名前など絶対に出しません。院長、ご決断ください」
 安井は頭を下げた。
 池端は両手の指先をつき合わせてしばらく思案した。
「ふうむ。他に手はないようだな。1千万が無駄金になると思うが、事務局がそれでもいいと言うなら、おまえの責任でやってみるんだな」
「ありがとうございます!では早速そのように伝え……」
「BJを大会議室に呼べ。どんなヤブ医者だか、一度見ておきたい。白拍子君も立ち会うように言ってくれ。言いたいこともあるだろうからな」
 この危急のときにこの男はまたくだらないことを、と安井は思ったが、ここで逆らっても時間の無駄になるだけだ。ご指示のとおりに、と言い捨てて、院長室を飛び出した。

 午前11時。
 BJは安井に伴われて大会議室に赴いた。日曜日に記者会見が行われて150人からの人数が詰めかけていた部屋だ。いまは楕円形に綺麗にテーブルが並べられている。正面の壁に仰々しく東西大学病院のエンブレムが飾られ、その下には池端病院長がふんぞり返って座っていた。その隣には白拍子が目ばかりギラギラさせて座っている。げっそりと頬がこけ、体は一回りも二回りも小さくなったようだった。
 BJを院長の真向かい、いちばん下座に座らせると、安井は院長の隣まで行って座った。座る場所も池端の指示どおりにした。まるで下座の者を諮問するような配置で、どこまでも自分の権威を誇示したい池端の演出には嫌気がさしたが、反対を唱えるのも面倒だった。そんな待遇に、当のBJがどこ吹く風という顔をしているのが救いだった。
 時間を惜しむかのように安井が口を開く。
「こちらが池端病院長、あちらが白拍子外科部長です。この度、BJ先生に手術を依頼することになりましたので、お引き合わせいたします」
 安井だけがペコリとお辞儀をした。次に何をどう言えばいいのだろうかと考えていると、おもむろに池端が言った。
「君のことは噂に聞いて知っている。医師免許も持っていないくせに、法外な報酬で手術を請け負っているクズのような男だそうだな。本来、名誉ある東西大学病院は君のような犯罪者が出入りできるような場所ではない。すぐにでも追い出したいところだが、この安井事務局長がわざわざ君を呼んだと聞いた。甚だ不本意ながら、彼の顔を立てるために、手術をひとつやってもらわねばならんことになった。君の失敗例をひとつ増やすだけのことだが、それでも君はやるのかね」
 安井は隣で握り拳を固めていた。これだけのお膳立てを整えてやった自分の苦労も知らずに、この男ときたらすべてをぶち壊しかねないことを平気で言う。
「BJ先生は手術をしてくださいます!そうですね、BJ先生。1千万円で手術をしてくださるお約束でしたよね」
 と、安井が取り繕った。
「3千万円いただきましょう」
 と、BJが言った。
「……はい?いま、3千万円とおっしゃいましたか?……いや、そんな話は、私、一言も……」
 安井は慌てるが、BJは澄ましたものだ。
「あれから3日もたってるんですよ、安井さん。患者の状態は更に悪化している。本当ならもっと上乗せしたいところですよ」
 BJがそう言ったとき、白拍子が狂ったように笑い出した。安井と池端がギョッとして白拍子を見た。白拍子は腹を抱え、涙まで流して大笑いしている。
「あっはっは。読めたぞ、BJ。あんた、治せる自信がないんだろう。だから、値を吊り上げて、こっちが依頼を取り下げるのを待ってるんだ。手術しなければ失敗もしないわけだからな。あっはっは。いかにも下司な医者が考えつきそうなことだな」
 白拍子はくつくつと笑い続けた。先ほど安井からBJに依頼するという話を聞かされたときには、目の前が暗くなるほどの屈辱を覚えたが、いまは愉快でならなかった。BJにもあの患者は治せないのだ。自分はBJに劣ってなどいないのだ!
「そういうことか。それなら、話は終わりだ。出て行ってもらおうか」と池端が言った。
「とっとと帰れ!」と白拍子が嘲笑いながら言った。
 安井は、3千万、3千万と繰り返しながら泣き出しそうな顔をしている。
 BJは、やれやれというように首を振った。
「そうですか。それではこの話はなかったということで、私は帰らせていただきますよ。よろしいんですね」
「ああ、帰れ帰れ」と池端と白拍子が声を合わせた。
「では、これで失礼する。コソコソ隠れていることにも飽きたのでね、堂々と正門から帰らせていただきますぜ」
 BJが立ち上がってドアへ向かうと、安井がハッとしたような顔をした。
「いや!ちょっとお待ちください、BJ先生。正門から出られるのは困ります。後ほどお送りいたしますので……」と、慌てて追いすがる。
「余計なお世話です。そんなことまで指図されるいわれはない。私の好きなようにさせてもらう。マスコミ連中がいる中を突っ切って帰りますよ」
「やめてください!払います!3千万円払いますから、今すぐ手術してください!」
 安井が悲鳴を挙げてBJに縋りついた。

 とんだ茶番だ、と池端が苦々しく言って、足音も荒く部屋を出ていった。新しい契約書を作ります、と安井が言って、院長の後を追うように部屋を飛び出していった。後にはBJと白拍子が残された。
「さて、手術の手順を話しておきたいんだがね」
 BJが白拍子のところまで行って話しかけると、白拍子はBJを睨みつけた。
「そんなもの、聞く必要はない。あんたがやるんだろう。私は関係ない」
「関係ない?あんた、主治医だろう」
「お払い箱になった『元』主治医だ。あとは、あんたが勝手に切り刻んでどうとでもすればいいさ。私は知らん……」
 白拍子の頬がピシリと鳴った。BJは、体勢を崩して椅子から転げ落ちた白拍子の胸倉を掴んで引き起こした。
「今度は拳で殴ってやろうか!いいか、よく聞け。あの患者はおまえさんの患者だ。私は手術の執刀をするだけだ。患者の命に責任を持つのはおまえさんなんだぜ!」
 白拍子は、事の成り行きについていけない様子でキョトキョトと視線を泳がせた。
「な、何を……。だって……」
「だって、何だ」
「だって、私は、あの患者を救うことができなかった……。何をやっても患者は回復しなかった……。もう、駄目なんだ……」
 白拍子は床にペタリと座り込んだ。虚ろな目に涙が盛り上がった。
 BJは白拍子の前にしゃがみこんだ。白拍子の顔を見つめながら静かに語りかける。
「まだ駄目じゃないんだ。おまえさん、これまで必死に頑張ってきたよな。私でもあんなには出来なかったかもしれない。あれだけの努力を、ここで全部放り出してしまうのか?患者の命を諦めてしまうのか?まだ手はあるんだ。しっかりしろ、白拍子」
「頑張った?……私が?」
「ああ、そうだよ。私はずっとモニターで見ていたんだ。おまえさんは何一つ間違った処置はしなかったし、でき得る限りの手をうっていたぜ。よく頑張ったじゃないか」
 大きく見開いた白拍子の目から、ポロリと涙がこぼれた。思えば、誰もそんな言葉をかけてくれた人間はいなかった。ただ「もうしばらく生かせ。できるだろう?」とばかり言われ続けて、ジレンマに圧し潰されてきた。それを、いま、あれだけ敵視してきたモグリの医者だけが、自分を認めて労ってくれている……。
 声もなく涙を流し続ける白拍子の肩をポンとひとつ叩いて、BJは立ち上がった。ポケットを探ってタバコを取り出し、窓から外を眺めながら一服つける。正門の前にたむろするマスコミの姿が見えた。
「本当に、まだ手はあるんですか。あんな状態なのに?」
 鼻をグズグズ言わせながら白拍子が尋ねた。
「ある。何があってもあの患者は死なせない。だが、そのためにはおまえさんの力が必要なんだ。どうしてもな」
 しばらくすると、背後で、白拍子が立ち上がる気配がした。
「やれるな、白拍子先生」とBJが問うと、
「はい」と白拍子が答えた。

 安井が大急ぎでこしらえた契約書を持って帰ってきた。報酬は3千万円。その後に但し書きがあって、BJが関与することを当院のスタッフ及びマスコミ、警察に知られないようにすること、とある。よほどさっきの脅しがこたえたとみえる。BJはクスリと笑った。
「報酬は、手術が終わり次第、現金でいただく。すぐに揃えてくださいよ。それから、この但し書きについてだが、もちろん、私の方から大っぴらにするつもりなんかないよ。でも、スタッフやマスコミや警察に知られないように、私がいったいどうすればいいんだい?あんたがお膳立てをしてくれなくちゃ、私は何もできないよ」
 BJがそう言うと、安井が、それもそうですね、と言った。慌てていて、そこまで考えが至らなかったらしい。えーと、何をどうすれば……、と考え込んでしまった安井に、BJの方から要求を出した。
「まずは、ビデオカメラが設置されていない手術室を用意してもらいます。私が手術することを誰にも知られないためにね」
「あ、はい、それは必要なことですね。カメラが動いていたら、みんなに見られてしまう……」
 安井が手帳にメモをとる。
「次に、器械出しの助手が一人、どうしても必要です。絶対に秘密を漏らす心配のない看護師さんを手配してください。その人に手術室の準備もしてもらいましょう」
 安井は、一人とはいえスタッフに秘密が漏れることに難色を示したが、白拍子が「それは私の方で手配しましょう。手術部の宮代看護師長が適任と思います。口の堅い信頼のおける人物です」と言ったので決着した。
「よろしい。ではそういうことで。手術の開始は、たぶん午後7時頃になると思います。そのときに私が手術室に入るルートも確保しておいてくださいよ、事務局長さん」
「ルート……。そ、それは、いったいどうすれば……」
「手術室の辺りから人がいなくなればいいんじゃないかな。事務局長さんの権限で、なんとかうまくやってください。なにしろ私の存在を知られちゃいけないんだから……」
「わ、わかりました。なんとかします……」
 安井は自分で出した要求がことごとく自分に返ってくるので弱り果てたが、たとえどんな無理でもやらねばならない。しっかりメモを取ると、それでは、と言って脱兎のごとく部屋を出て行った。

「さてと。では、手術の段取りを説明しよう。もうあまり時間がない」
 BJは白拍子に向き直った。
「この手術はおまえさんがいないと始まらないんだ。いろいろと働いてもらうよ。早速だが、用意してもらいたいものがある。503号室に臨床的脳死状態になっている患者がいるな。カルテによれば、30代くらいのホームレスで近親者の存在は不明。仲間からは『山田さん』と呼ばれていた男だ。5日前にクモ膜下出血で倒れてここに運ばれてきている。脳死判定の後に彼の身体を使わせてもらう。速やかに1回目の脳死判定をやってくれ」
 白拍子が異を唱えた。
「移植手術を行うつもりですか。いや、それは、無駄でしょう。肝臓や心臓といった臓器を移植したところで、例の患者は頸椎から胸椎までが広範囲にやられているのです。そこをなんとかしないと、結局は死亡してしまいます。……まさか、脊椎を移植するなんて言うんじゃないでしょうね。絶対に無理ですよ、そんなこと!」
「まさか、そんなことは言わないよ。それに、移植する方向が逆だ。例の患者から山田さんの方へ移植するんだよ。もちろん移植するのは……、脳だ」
 白拍子の口が全開になった。
「われわれがこれから行うのは、脳移植術だよ。白拍子先生」
 BJがニヤリと笑ってみせた。

「顔のない男」 4

 それから、安井と白拍子は目まぐるしく、しかし人目を避けながら病院内を駆け回った。安井はスタッフやマスコミや警察に知られずにBJに手術をさせるために。白拍子はそれに加えて安井と院長にも知られずに脳死患者の身体を用いて脳移植術をするために。
 白拍子は12時30分と6時45分の2回、極秘裏に山田さんの脳死判定を行った。脳死判定は移植手術と無関係の医師2人によって行われなくてはならない決まりがある。しかし、これから行うのは脳移植。倫理的にも技術的にも、とても公に認められるような術式ではない。誰にも知られてはならない。だから、脳死判定をするのは白拍子一人しかいなかったのである。
 安井は銀行をいくつか回って3千万円をかき集めたり、カメラの設置されていない手術室を確保したり、7時前には手術部のスタッフを一室に集めて唐突に消火器の使い方講習などを始めたりして、なんとか手術室の周辺に無人の状態を作り出すことに成功した。緊急オペが入らなかったのが幸いだった。
 6時50分、手術室近辺にひと気がなくなったのを確認して、まず白拍子から極秘に指示を受けた宮代看護師長が山田さんを手術室に運び込んだ。すぐに再び人工呼吸器を接続する。山田さんの呼吸と心拍が再開した。
 次に、白拍子が例の患者を集中治療室から運んだ。「自分が一人で手術をする」という白拍子の言葉に首を傾げるスタッフもあったが、もはや手の打ちようがないから形だけ手術したことにするのだろうと解釈して、皆が手を引いた。
 あとは、BJを待つばかりとなった。
 しかしこのとき、ちょっとした事件が起こった。大会議室を出て手術室に向かうBJが、襲撃されたのだ。
 ひと気のない廊下を歩くBJに、物陰に隠れていた男が背後から忍び寄った。BJの首筋に何かを振り下ろすのと、廊下の向こうから誰かが「やめろッ!」と叫んだのが同時だった。BJは咄嗟に身をかわして、襲撃者の腕に手刀を打ち下ろした。その手から注射器がポロリと落ちた。腕を押さえてよろける襲撃者に、声の主が横から飛び掛かって床に抑え込んだ。
「暴行の現行犯で逮捕する!」
 襲撃者を後ろ手にしてガチャリと手錠をかけたのは、友引警部だった。
「ケガはないか、先生!」
「ないよ」
「なんだ、俺の助けなんか要らなかったみたいだな。こんなこともあろうかと、きょうは勝手にボディガードをやってたんだが。なかなか強いじゃないか」とニヤリと笑った。
「それほどでも」と答えて、BJは襲撃者の顔を覗き込んだ。
「知ってる奴か」
「ああ。麻酔科の河内という男だ。何回か集中治療室にやってきていた……」
「ここの医者だって?何か恨みを買うようなことでもしたのか、先生」
「そんな覚えはないね。会うのはいまが初めてだ」
「そりゃあ……いろいろと喋ってもらわなくちゃならないようだな。ほら、さっさと立て!」
 警部は同行していた制服警官に河内の身柄を引き渡した。それから、河内が落とした注射器をハンカチでくるむように注意深く拾い上げてポケットに収めた。
「ところで、どうやらやっと先生に出番が回ってきたようだな。安井が朝から必死の形相でバタバタしていたぜ。先生、頑張ってくれよな。……いや、俺は先生が手術するなんてこと全然知らないけどな」
 警部は、不器用なウィンクをしながらわざとらしく言ってみせた。闇の中に一筋の光明を見つけたような嬉しそうな顔をしている。
 そのまま、じゃあな、と立ち去りかけた警部をBJが引き止めた。
「警部、ちょっと頼みがあるんだが……」
「何だ」
 BJは警部の耳元で何ごとかを囁いた。

 7時。
 手術室の入り口に「手術中」のランプが灯った。
 安井は、スタッフに消火器の使い方を実習させておいて、廊下の端からそれを見届けた。とりあえずホッとした。いまあの中にはBJと白拍子と宮代と例の患者がいるはず。手術がうまくいきますようにと、心の中で手を合わせた。
 実際にはそのとき手術室には5人の人間がいた。BJ、白拍子、宮代、例の患者、そして山田さんだった。
 患者の血圧は既に55まで下がっている。心停止するまでもう間がないと思われた。
「これより脳移植術を開始します」
 BJの声に宮代が思わず「えッ!」と驚愕の声を漏らした。無理もない。この手術室でこれからどんな手術が行われるのかを、このとき初めて知ったのだ。
 しかし、白拍子がたった一人で脳死判定をしたことや、カメラのない手術室を準備させられたこと、そもそも噂にしか聞いたことのなかったBJが現れたことから、これから行われるのがふつうの臓器移植手術ではないことをおぼろげに察していたのだろう。やがて無言でコクンと頷いた。それを見てBJと白拍子が軽く礼をした。
「まずは患者二人に麻酔をかける。宮代さん、点滴をお願いします」
 はい、と答えて、宮代が鎮痛薬と鎮静薬の点滴を二人に施した。
 麻酔が効くのを待って、BJが言う。
「白拍子先生には山田さんの脳の摘出をお願いする。できるだけ後から繋ぎやすいように切っておいてくれよ。私はこっちの患者を受け持つ」
 わかりました、と白拍子は答えて大きく頭蓋骨を切開することから始めたが、さて、後から繋ぎやすいように脳を切り取るとは、いったい何をどうすればよいのか見当もつかなかった。なにしろ、そんなことはやったことがない。最初から宮代に汗をふいてもらい、BJの助言を受けながらの悪戦苦闘だった。
 BJはその間、顔のない患者の全身をくまなく調べていた。モニター越しにずっと見守っていた患者ではあったが、実際に手を触れるのは初めてである。ありとあらゆることを知っておきたかった。
 白拍子が1時間ほどかかってなんとか山田さんの脳を摘出したとき、顔のない患者を診ていたBJが言った。
「心停止だ」
 白拍子はハッと顔を上げた。
 心電図モニターの波形が最後にひとつ小さくピッと動き、それから永遠に平坦になった。
 土曜日からこっち、白拍子がいちばん多くの時間をともに過ごしてきた患者が、いま、死んだのだ。顔のない男はいったいどんな表情をして死んだのだろうと、白拍子は思った。せめて安らかな死に顔だったと思いたい……。
 思わず感傷的になった白拍子に、BJが言う。
「さて、そっちの準備は出来たかい。3分でそっちに移すぞ」
「さ、3分!?」
「酸素の供給がなくなった脳はどんどん壊れていくんだ。それ以上の時間はかけられない」
 BJは患者の頭部に手早く電動のこぎりを使った。白拍子の目には無造作にやっているように映ったが、露出した脳を見ると硬膜に傷ひとつついていない。白拍子は舌を巻いた。
 山田さんの脳よりもツヤツヤとして張りのある綺麗な脳だった。そうだ、この脳はまだ死んでいない。この患者はまだ死んでいない。死なせてはいけないのだと白拍子は思った。
 BJはテキパキと神経や血管を結紮し切り離し、なんと、ほんの2分ほどで脳を摘出してしまった。白拍子は夢を見ているのかと思った。宮代もこれ以上はないというほど目を大きく見開いている。
 BJは取り出した脳を両の掌で温めるように優しく捧げ持った。ほんのしばらくの間、彼はそのままの姿勢でじっと脳を見つめていたが、「行くよ」とひとこと言って山田さんの方へ移ってきた。
「これからは時間との勝負だ。必ず生かすぞ」
「はい!」
 白拍子と宮代が使命感に燃えた声で返事をした。

 それからのBJの手技はまさに神業だった。宮代の器械出しが追いつかないほど速い。内頸動脈から始めてすべての動脈と静脈を繋ぐ。12対の脳神経を繋ぐ。白拍子もいくつかの血管縫合を手掛けたが、BJの手技の鮮やかさには思わず見惚れた。
「先生は、これまでにこんな手術をされたことがあるのですか」と問うと、
「何度かやったよ」と、事もなげな答が返ってきた。
「誰かにやり方を教わったのですか」
「まさか。試行錯誤だったよ」
「怖くはなかったですか」
「怖かったさ。だが、やらなければ、たった一人の命すら救えない。せめて一人の命は救いたいじゃないか。だから無我夢中でやったんだ」
「せめて一人の命を救うため……」
「ああ。こっちに身体を欲しがっている脳がある。そっちに脳を欲しがっている身体がある。出会わせてやれば、せめて一つの命は失われずにすむかもしれないだろう?命は一度なくなってしまったら、取り返しがつかないからな。こんなことができるのは外科医だけだぜ。ほら、白拍子、手を動かせ」
「あ、ああ、すみません」
 自分にはとても到達できなかった考えだと、白拍子は思った。顔が崩れ、身体じゅうがボロボロになっていた時点で、最初から自分はあの患者をすぐに死んでいくものとしてしか見ていなかった。失われたら二度と取り戻すことのできない「命」として見たことなどなかった。どうせ死ぬ。ただほんの少しの間、心臓を動かしておく必要があるから治療しているに過ぎなかった。患者のためですらなかったのだ、と思う。ただ、そこまでやったという自分への言い訳とプライドのためにやっていた。そう、自分のプライドのため、BJに渡したくないというプライドのためだけだった……。
 なんてちっぽけで虚しいプライドだったのだろうかと思った。いま目の前で厚さ1㎜にも満たない神経の鞘に針を通しているこの男は、外科医という仕事に誇りを持っている。外科医にしかできない「命」との向き合い方に誇りを持っている。この男が見ているのは命そのものだった。
 自分など初めから敵うわけはなかったのだ。いや、そもそも最初から自分の存在などこの男の眼中にはなかったのだと思う。悔しい……という思いは、不思議と湧いてこなかった。いま懸命に一つの命を救おうとしている自分は、いままでの自分とは違う自分のような気がした。目が覚めた思いがする。自分は、いま、外科医なのだ、と思った。
 白拍子のピッチも上がった。無我夢中で細い静脈を繋ぎ終えると、もう繋ぐべき血管は残っていなかった。顔のない患者の脳はぴったりと山田さんの頭蓋骨の中に納まった。
「よし、うまいぞ。見たところ、壊死もないようだ。ちゃんと脳に血液は行き渡っているな」
「……信じられません」と、震える声で白拍子が言った。
「脳も身体も、まだ生きたかったんだろうぜ。私たちはその手助けをしてやっただけだ。さてと。問題は神経がうまく繋がったかどうかだが……」
 BJは脳のてっぺんあたりのシワに電極を差し込んで、ごく微弱な電流を流した。
「あッ!」
 と宮代が声を挙げた。
「いま、ほんのわずかですが、患者の足の指が動きました」
「うん、私にも見えたよ。人間の身体ってすごいねえ」
 宮代とBJが嬉しそうに会話している。白拍子は胸がいっぱいになって何も言えなかった。BJは白拍子をチラリと見ると、よかったなあ、成功だぜ、と言った。白拍子はただコクコクと頷いた。
「延髄と頚髄がもっとちゃんとくっつくまで、人工呼吸器はもうしばらくそのままにしておく。次は頭蓋骨を元通りにして、それから山田さんの顔を形成する。このままの顔じゃまずいからな。二人とも休んでいなさい。あとは私ひとりでできる」
 白拍子と宮代は、BJにそう言われて初めて、自分たちがひどく疲れていることに気付いた。手術を開始してからまだ2時間ほどしか経っておらず、またそれは高揚感を伴ってあっという間のように思えたのだが、緊張感が途轍もないものであったことに初めて気づいた。だが、二人とも、いまは休んでなどいたくなかった。
「大丈夫です。やります!」
 二人が異口同音に言い、BJはマスクの下で微笑んだ。

 だが実際には、二人はほとんどやることがなかった。ただBJの手技に見惚れていればよかった。
 BJは頭蓋骨を再び被せて皮膚を縫い合わせた。外見は山田さんだが、例の患者の脳を納めた人間ができあがった。それからBJは山田さんの顔のあちこちにちょいちょいとメスを入れては縫い合わせ、あっという間にまったく別人の顔を作り上げた。誰も元の顔を知らなかった「顔のない男」の顔が、新しくできあがった。山田さんの顔と比べると、どこか気の弱そうな優しげな顔立ちだった。
「こんなところかな。次は……そうそう、耳だ」
 そう言って、BJは二人の患者の間を行ったり来たりして互いの耳介を付け替えた。白拍子が、どうして耳を?と尋ねると、いや、見事な福耳だったからね、と答えた。白拍子は宮代と顔を見合わせて、クスクスと笑い合った。患者の意識が戻った時に別の身体になっていることを気付かせないための処置であることはわかっていたが、気分が高揚しているからか、BJの答えが無性に可笑しくてならなかった。
「記者会見では、左目が眼球破裂していることと、歯がほとんど残っていないことを発表してしまいましたが……」と白拍子が言った。
 BJが、破裂していた目は自然に治ったことにしよう、と言ったときには、ついに宮代がブフッと吹きだした。歯はどうしようかなァ……とBJが途方に暮れたように言ったときには、白拍子は大笑いが止まらなくなった。
「おいおい……」とBJが呆れたように言ったが、脳移植などというとんでもないことを平然とやってのけたBJが、患者に歯があることに困惑している事態というのは、どんな喜劇も及ばないほど滑稽なことに思えた。ひとしきり笑ってから、白拍子が、それは自分が後からどうとでもごまかします、と請け負った。
「よし、頼んだよ。あとは、指紋だな。二人の指先の皮膚を交換する。それから、腹部を開いた痕を付けておかないとマズいな。健康な身体に傷をつけるのは気が進まないが、皮膚をごく浅く切って縫合しておこう」
 BJが言い、それからは白拍子と二人で、山田さんの身体を例の患者のように見せかける作業に没頭した。

 すべての施術が終わったのは曜日も変わった木曜日、午前2時だった。
「術式終了。協力に感謝します」
 BJが宣言し、頭を下げた。白拍子と宮代も礼をした後、BJへ心からの讃嘆の拍手を贈った。
「BJ先生。こんな経験は初めてでした。手術でこんなに感動したこともありませんでした。しかも……、こんなことを言うと不謹慎かもしれませんが……、やっていてこんなに楽しいオペも初めてでした。ありがとうございます、BJ先生。患者も救われましたが、私も救われた思いがします」
 白拍子が握手を求めて右手を出すと、BJはその手をがっちりと握った。その上から宮代がそっと自分の手を重ねた。BJを見つめる目が潤んでいる。感動で言葉も出ないようだ。BJは左手で彼女の肩を抱き寄せて、ありがとう、と言った。

 患者の容態は安定していた。頭部は鼻と口を除いて包帯とネットで覆われている。もうしばらくは人工呼吸器をつけ、自発呼吸ができるようになったら白拍子が取り外すことになる。
 また、もう一人の患者……つい数時間前まで「顔のない男」と呼ばれていた患者の身体のほうは、傷を綺麗に縫合され、全身を包帯で巻かれて、いまは永遠の眠りについていた。3人は静かに合掌した。

「さて、では私は逃げる算段をするよ。あとはさっき説明した手筈どおりによろしく」とBJが言い、二人が名残惜しそうに、はい、と答えた。
 まず、白拍子が患者のストレッチャーを押して手術室を出ると、案の定、安井が居ても立ってもいられない様子で待っていた。
「ど、どうなりましたか。患者は助かりましたか」
「ええ、手術は成功しましたよ」
 白拍子がにっこり笑って答えると、ああ……!と叫んで、ストレッチャーにしがみついた。ほっとして腰が抜けたようだった。
「安井さん、まだ安心するのは早いですよ。BJ先生が着替えを終えて出てきたら、すぐに逃がしてあげるという仕事が残っていますよ」
「ああ、そうでした、そうでした。職員通用口から車でお帰りいただく段取りになっています」
「ちゃんと案内してあげてくださいね。私はこれから、この患者を〇〇警察病院に搬送します。救急外来に患者搬送車が来ているはずですから」
「え?何ですって?そんな話は聞いていませんが……。当院の集中治療室ではいけないのですか」
「この患者は重大事件の容疑者です。警察がちゃんと身柄を保護できる場所のほうがいい。うちの病院よりは警備もしやすいだろうと思って、手配したのですよ」
「ああ、なるほど……」
 安井はしばらく考えていたが、患者を治したのが当院の医師であるところの白拍子であるならそれでいい、いつまでも東西大学病院に警官の見張りがつくのは遠慮したいところだったから好都合だと思ったのだろう、了解しました、と言った。
 BJを待つ安井を残して、白拍子は患者のストレッチャーを救急外来の入り口まで運んだ。予定どおり、車体に「〇〇警察病院」と書かれた患者搬送車が停まっていた。後部ドアのところに強面の男が一人立っている。
「友引警部さん?」
 白拍子が問うと、そうです、待ってました、と言う。
「すぐに運んでください。私が付き添います」
「手術は成功しましたか。患者は助かりましたか」
 幾分心配そうな声で尋ねる警部に、白拍子が、はい、と答えると、警部は雄叫びを挙げてガッツポーズをした。
 BJが河内に襲撃されたとき、友引警部に依頼したのが、患者を転院させることだった。自分が狙われたからには、患者はこれからも狙われる可能性があるとBJは考えたのだ。襲撃者は河内だけとは限らないかもしれない。患者を生かしておきたくない誰か、黒幕Xがもし他にいるとすれば、患者をここに置いておくのはまずい。そう考えてBJが打った一手だった。
 ストレッチャーを車に載せていると、路上からカメラのフラッシュがたかれた。「白拍子先生だぞ」という声が上がる。「ということはあの患者か!」という声も聞こえる。「ビデオ回せ!」「ライトもっと明るく!」「〇〇警察病院まで先回りしろ!」「社に連絡!」「応援頼む!」……
 にわかに大騒ぎとなった救急外来入り口から、マスコミ陣を掻き分けるようにして患者搬送車がすべり出た。
 
 同じ頃、BJと安井は職員通用口にいた。そこにいたマスコミ陣は皆、救急外来の方へすっ飛んで行った。ざわめきがかすかに聞こえてくる。
「BJ先生、ありがとうございました。これは報酬です」
 安井が言って、黒いアタッシェケースを手渡した。
 BJは中身をざっと確認して、言った。
「結構。ではこれで失礼するよ」
「先生。今回のことはくれぐれも……」
「わかってるって。心配しなさんな。私とこの病院とは、何の関係もないよ」
 それだけ言うと、用意されていた車を断って、黒衣の医者は闇に消えて行った。
 安井は深々と頭を下げた。

 また同じ頃、宮代が手術室から一人の患者の遺体を霊安室に運んだ。白拍子が書いた「死亡診断書」を枕元に置く。それには「氏名、生年月日 不詳。備考:『山田さん』と呼ばれていた。……死亡時刻 18時45分。……死因 クモ膜下出血。」等々と書かれている。朝を待って区役所に連絡すれば、山田さんという行旅人が死亡したということで処理され、荼毘に付されることになる。世間を騒がせている事件の被疑者の「身体」がこういう運命をたどっていることは、世界じゅうでBJと白拍子と宮代の3人しか知らない秘密だった。
 宮代は祭壇に線香をあげ、合掌した。この人は山田さんなのか、それとも顔のない男なのか……。どう考えればよいのか、宮代にはよくわからない。しかし、それが誰であっても、送ってくれる人もなく一人で旅立つのは寂しいだろうと思う。
「私が見送ってあげますよ」
 宮代は優しく語りかけていた。

 木曜日。午前9時。

 安井が意気揚々と院長室のドアを開けた。池端は昨夜は帰宅しなかったようで、椅子に座ったまま居眠りをしていた。
「おはようございます!院長、お聞きになりましたか。手術は成功しましたよ。あの患者、助かりましたよ!」
「なんだって?もう手術は終わったのか。成功したって?……ほぉ、そうか。起きているつもりだったが、つい寝てしまっていたな……。よかったな、安井君。これで君も理事になれる」
「いえいえ、そんなことは二の次で……。これで当院が“次世代高度先端医療構想”の中核病院に指定されることこそが大事なのですよ。早速、大々的にマスコミに発表しようと思いますが、院長のご都合は?」
「まだ白拍子君から何の報告も受けておらん。まずは話を聞いてからだ。彼は集中治療室にいるのか」
「白拍子先生は患者に付き添って、いまは〇〇警察病院におられます」
「〇〇警察病院?何だそれは……。なんでそんなところにいるんだ!」
「手術の後、あの患者を転院させたのですよ。なにしろ、重大事件の容疑者ですから、あちらの方が警察が警備しやすいということで。搬送されるところは今朝のワイドショーでも取り上げられていましたよ。それから、私もいままであちらに行っていましたが、患者の容態は安定しているそうです」
「なんだと!私は聞いていないぞ!誰が勝手にそんなことを!あの患者は当院の患者だぞ!」
 池端が激昂するのを、安井が、まあまあ、となだめていると、ドアがノックされる音がした。安井が行ってドアを開けると、立っていたのは友引警部である。
「ちょっと院長先生にお話があるんですがね。警視庁の友引です」
「あ、はい。院長、警察の方がお見えになりました」
 安井が友引を池端の前へ案内した。
「何のご用でしょうかな。いまちょっと立て込んでいるので、手短かにお話し願いたい。もしも、勝手に患者を転院させたことについての詫びでも言いに来たのなら、こちらにも言い分はあるがね」
 池端が尊大ぶって言うと、友引は、そんなことじゃありません、と言った。
「昨日の午後7時前のことですが、この病院内で暴行事件が発生しました。ご存じですよね?」
 友引が言うと、池端は即座に「知らん」と言った。安井も首を傾げている。
「おや、ご存じありませんか。外来者が突然襲われましてね。ちょうどそばにいた自分が現行犯逮捕したんですが、その襲撃者というのがこの病院の麻酔科の医師だったんですよ」
「なんですって!」
 安井が思わず叫んだ。
「そうなんですよ、安井さん。筋弛緩剤の入った注射器を持っていました。昨夜は犯行を否認していたんですがね、今朝になって急にベラベラしゃべり始めたんです。自分は頼まれただけだと言うんですなぁ。それで、そんなことを頼んだのは誰だと聞いたところ、こちらの池端病院長だと言うんです。それで、お手数ですが、お話を伺いたいので、署までご同行願えませんかね、池端院長」
 安井は横で口をパクパクさせている。
 池端は凶悪なゴリラのような表情で友引を睨みつけた。
「断る。私がどうしてそんなことをしなくちゃいけない?任意同行なら断る権利があるはずだ。しかし、そんなくだらないデタラメを真に受けるとは、警察も落ちぶれたものだな。いいか。河内という男は医者の風上にも置けんチンピラのような男だ。他所の病院で問題を起こして追い出されたのを私が拾ってやったんだ。何をやらかすかわからん札付きの男なんだよ。ウソやデタラメも平気で言う。自分が助かるためにそんな作り話をしているだけだ!」
「ほぉ……」
 友引が凄みのある笑みを浮かべた。安井はキョトンとしている。
「いま、『河内』とおっしゃいましたかね、院長先生。私はただ麻酔科の医師と言っただけで、名前までは言っていませんがね」
「え……」
 池端の顔から血の気が引いた。
「まさか、こんな大きな病院に麻酔科の医師が河内ひとりしかいないなんてことはありませんよね、院長」
 安井は、院長、院長……と呟きながらオロオロしている。
「やはり何かをご存じのようだ。お話を伺います。署まで来ていただきましょうか」
 友引が厳しい口調で言って池端の腕を取った。

 4~5人の警察官に前後左右を固められ、引きずられるように正面玄関まで連れてこられた池端病院長は、マスコミ陣の格好の餌食になった。慌てた様子でチョロチョロと周りを走り回る安井事務局長の姿とともに、朝のワイドショーで生中継された。
「番組の途中ですが、東西大学病院でまた何か動きがあった模様です。現場のレポーターを呼んでみましょう」
「きょう未明に白拍子医師が一人の患者に付き添って〇〇警察病院に行ったことは先ほどお伝えしたとおりです。その患者が富士見商店街連続殺傷事件の容疑者かどうかはまだわかりませんが、いままた池端病院長がパトカーに乗せられて警察に向かうようです。何か関係があるのでしょうか」
「いったい何が起こったのでしょうか。まだ詳細は不明ですが、東西大学病院の池端院長が警察に連行される模様です」
「いま、パトカーに乗りました。後部座席の真ん中に座っています。左右に捜査官が乗りました」
「いま、ゆっくりとパトカーが走り始めました。あ、安井事務局長が見送っています。……安井さ~ん、何があったんですか、お話を……。安井さ~ん」
「安井事務局長は急いで中に入ってしまいました。病院の警備員がわれわれを中に入れてくれません」
「何か動きがあればすぐにレポートしてください。いまの映像を見る限り、院長は『連行』されたという感じでしたね」
「そうですね。何があったんでしょうか……」

 安井は青ざめていた。つい数分前まではあの患者が助かったことで天にも昇る心地でいたのに、病院長が警察に任意同行を求められて連れていかれてしまった。河内医師の暴行事件とやらに何か関係があるようだったが……。おまけにその様子は全国に生中継されてしまったようだ。いったいどうなるのだろう。安井は自分のデスクに戻ると頭を抱えた。

 正午。警察から発表があった。
「富士見商店街無差別連続殺傷事件の被疑者をはねた車輌から採取されていた指紋が、昨日、別件の暴行事件で現行犯逮捕されていた東西大学病院の麻酔科医師・河内龍二被疑者のものと判明した。同被疑者が車輌の窃盗及びひき逃げについて犯行を認めたため、本日午前11時に逮捕状を執行した。なお、同被疑者はこれらの犯行につき、第三者からの教唆を供述しており、引き続き取り調べを行う」

 午後4時。
安井のもとに一本の電話が掛かってきた。
「“次世代高度先端医療構想”の中核病院には東都明協大学病院が指定されました。貴院におかれましては不祥事があったようで、今回はお気の毒ですが……」
 安井の夢が潰えた瞬間だった。

「顔のない男」 5

 季節が巡って、〇〇警察病院の病室には梅雨の晴れ間の日差しが差し込むようになった。
 富士見商店街無差別連続殺傷事件の被疑者はベッドの上に上体を起こし、傍には白拍子と友引警部とその連れの刑事がいる。
「きょうは頭の包帯を取るよ。あらかじめ言っておくけれど、君の顔はかなり損傷していて、その……、元の顔かたちがわからない状態だったんだ。だから、大幅な形成手術を施している。以前の君の顔とはずいぶん違ったものになっているはずだから、見たときに驚かないでくれよ」
 白拍子が言うと、患者は小さな声で、はい、と答えた。既に人工呼吸器も外され、少し不明瞭ではあるが、ちゃんとしゃべれるようになっている。
 白拍子が包帯を巻き取ると、傷跡ひとつない顔が現れた。友引が、おお、と感嘆の声を漏らした。友引は患者の顔の損傷がどれほどのものであったか知らない。だが、さんざん「顔のない男」とマスコミが喧伝していたから、もっとひどい状態を想像していたのだろう。びっくりしたような顔をしている。これが山田さんの顔を形成しただけのものだとは、もちろん友引に明かすつもりはないから、白拍子は若干後ろめたいような可笑しいような複雑な気持ちになった。
 白拍子が患者に手鏡を手渡すと、患者はしっかりと手鏡の柄を握った。運動機能も問題ない。
「見てごらん」
 白拍子が言うと、患者はおずおずと手鏡を自分の顔の前にかざした。鏡に映る自分の顔をじっと見る。左右に少し首を振って斜めの顔も確かめる。やがて、小さな声で言った。
「ありがとうございます、先生。元の顔のままです」
「えッ?!」
 これには白拍子も驚いた。
「元の顔のまま?そ、そうなのかい」
「はい。いや、前よりもっと祖母に似ているように思います。嬉しいです」
「それは……よかった。うん、よかった」
 白拍子にはBJが魔法使いのように思えてきた。わけのわからない汗がどっと噴き出したが、ここは素知らぬふうで押し通し、コホンとひとつ咳払いをする。
「きょうは警察の人が来ているんだ。事件のことを聞きたいそうなんだが、話せるかな」
 患者は、はい、大丈夫です、と答えた。
 疲れたら言うんだよ、と、白拍子はそのまま患者に付き添い、友引警部が取り調べを行うことになった。もうひとりの刑事がレコーダーを回し、筆記をする態勢を取った。

 以下は富士見商店街無差別連続殺傷事件の被疑者の供述である。

「中里茂、28歳。現住所は東京都○○区△△町××-×。本籍はG県T郡U村×××です。中学校を卒業するまで、祖母と二人でそこに住んでいました。両親は私が5歳のときに交通事故で亡くなりました。私ひとりが死なずに助かりました。それまでは両親と3人で東京に住んでいましたが、事故の後、U村の父の実家に引き取られました。祖父と祖母は農業を営んでいて、愛情深く私を育ててくれましたが、あまり豊かな暮らしではありませんでした。祖父は私が13歳のときに亡くなりました。
 私は早く社会に出て働いてお金を稼ぎたいと思っていたので、中学卒業後、父の以前の知り合いが東京で営んでいた印刷会社に就職しました。でも、そこは私が勤め始めて1年ほどで不況のあおりを受けて倒産してしまいました。その後、写真の現像所に勤めましたが、そこもすぐに倒産し、あとはいくつもの職を転々としました。
 それでもU村で細々と農業をするよりは稼げるだろうと思って、祖母の元には帰りませんでした。ちゃんと働いてお金を儲けて、祖母に仕送りのひとつでもしてやりたいと思っていました。でも、現実はそんなに甘いものではありませんでした。就ける職はだんだんとレベルが落ちていきました。コネもないし、学歴もないし、専門的な知識もないし、手に技術もないし、車の運転もできませんでしたから。悪い人間に騙されてわずかな所持金を全部盗られたこともありました。とうとう、日々雇用の仕事にありつければいいほう、というところまでいきました。食うや食わずの生活でした。当時住んでいたアパートも、家賃を滞納して追い出され、ホームレスになりました。そうなればなったで、やっぱり祖母の元には恥ずかしくて帰れませんでした。結局、中学卒業以後、一度もU村には帰っていません。
 私はだんだん無気力な人間になっていきました。一生懸命働こうという気持ちはあるのですが、誰も私を必要としてくれないのです。東京の人混みの中で、私は自分が透明人間にでもなったような気がしました。こんなに大勢の人がいるのに、誰の目にも私という人間は見えていないのじゃないかと思いました。もう何を考えるのさえ面倒になっていました。ただ人に言われたとおり、言われた期間だけ機械のように働くという生活でした。生きているという実感すらありませんでした。自分なんてどうなってもいいと思うようになっていました。
 3年ほど前、私はあるビルの建設現場で働いていました。3か月ほどの契約で、資材を運ぶ力仕事です。その間は寮に寝泊まりすることができるので、私にとっては好条件の仕事でした。ところが、そこで働き始めて1ケ月ほどたったころ、私は足場から転落してしまったのです。すぐに病院に運ばれましたが、両足の踵を骨折していて、ギプスをつけられ1ケ月近くの入院を余儀なくされました。当然、その仕事は辞めざるを得ませんでした。そして退院する日になっても、私には病院に支払うお金がありませんでした。健康保険にも入っていませんでしたから……。
 そのときに私を助けてくださったのが、入院していた病院の院長先生でした。私のことを気の毒に思ってくださったのでしょう、治療費や入院費を立て替えて下さり、退院後に住むところを世話して下さり、仕事まで下さったのです。はい、東西大学病院の池端院長先生です。
 院長先生は私を個人的に雇ってくださいました。きちんとお給金もいただいて、立て替えてもらっていた治療費や入院費を少しずつお返ししました。
 どんな仕事だったか、ですか?とても楽な仕事でした。毎日、院長先生のお宅に伺って庭仕事をしたり、力仕事をしたり、不要な書類を燃やしたりというような雑事です。院長先生は奥さまを亡くされていましたので、料理や洗濯などの家事は通いの家政婦さんがやっていました。他に、河内という男の人が時々やってきて何か仕事を頼まれていたようですが、詳しいことは知りません。
 1年ほど前、院長先生から大沢さんという人のお宅を見張るように言われました。院長先生のお宅で仕事があるときは行かれませんでしたが、仕事がない日は毎日のように、大沢さんのお宅の前まで行きました。とても大きなお屋敷で、時代劇で見るような大きな門がありました。その門が見えるファミリーレストランから、日がな一日、人や車の出入りを見張って記録しました。何故そんなことをするのか、理由は別に聞きませんでした。院長先生が私に、そうしろ、とおっしゃるのだから、私はそれに従わなくてはいけないと、そう思っていました。なにしろ、院長先生は私を助けてくださった大恩人でしたから。それに、そういう仕事は、子供の頃に見た刑事ドラマの刑事にでもなったようで、どこか楽しくさえあったのです。
 大沢さんというのは白髪のおじいさんで、訪ねてくる人は多いのですが、ご本人は滅多に外出されることはありませんでした。でも、土曜日の午後には車で出かけられることが多いことがわかってきました。院長先生にそう報告すると、しばらくして、今度は土曜日の午後には富士見商店街へ行くように言われました。指示された理髪店の前をぶらぶらしていると、大沢さんがやってきて、午後2時には店を出られることがわかりました。
 院長先生にそう報告したところ、今度は思いがけないことを言われたのです。理髪店から出てきたところで大沢さんを包丁で刺せ、と。
 さすがに私も驚いてしまって返事に困りました。でも、院長先生は、あの大沢という男は悪人で、殺さないと自分が危うい、だからどうか助けてほしいと、私に懇願なさったのです。私のような人間に頭を下げて頼まれたのです。それに、私がそれを実行した後はちゃんと無事に逃がしてやる、決して警察に捕まるようなことはないからとおっしゃいました。君にしか頼めない、頼む、頼む、と何度も頭を下げられました。私のこれまでの人生の中で、こんなに人から頭を下げて何かを頼まれることなどありませんでした。こんなに自分という人間が人から必要とされたことはありませんでした。何をバカなことを言っているのかと思われるでしょうが、私はそのとき本当に幸せさえ感じたのです。それで、私は承知してしまったのです……。

 事件当日は、まず河内さんと二人で電車に乗ってどこかの駅前のパチンコ屋の駐車場へ行きました。これがどこの駅で何というパチンコ屋だったかは、どうしても思い出せません。すみません。河内さんに連れられて行ったのだと思います。そこに停められていたライトバンのカギを河内さんが何か道具を使ってあっさり開けてしまったことは覚えています。乗れと言われて乗りました。
 次に覚えているのは、富士見商店街の飲み物の自動販売機の前にひとりで立っているところです。無性に喉が渇いていたので缶コーヒーを買って、その場で飲みました。手には包丁を入れた紙袋をぶら下げていました。自分で用意したのか、河内さんから渡されたのかは覚えていません。時間ですか?午後の2時ちょっと前です。2時には理髪店の前に行かなくてはなりませんでしたから。
 そこでもう少し時間をつぶせばよかったのでしょうが、自分がこれからしなくてはならないことを思うとさすがに緊張して、居ても立ってもいられないというか、思わずギクシャクと歩き出してしまって、理髪店の前を何度か行ったり来たりしました。心臓が口から出そうなほどドキドキして、汗がダラダラ出て、でも手足の先はとても冷たくて、生きた心地がしなかったことを覚えています。
 突然、男の人に大声で話しかけられたときには身体が固まってしまいました。その人は大沢さんのところの運転手さんで、お屋敷を見張っていたときに何度も見たことのある人でした。何してるんだ、とか、ウロウロするな、とか、そんなことを言われたような気がします。私は怖くて、もう逃げ出したい思いでいっぱいでしたが、ここで逃げるわけにはいかないと思って、黙って聞いていました。そのとき、理髪店から大沢さんが出てくる気配がしました。この、目の前の男を何とかしないと、私は院長先生のご命令を実行することができないと思いました。お願いだから黙ってくださいという思いで、運転手さんを刺しました。殺すつもりなどありませんでした。ただ、私が目的を果たすまで黙っていてもらいたかったのです。運転手さんは静かになりましたが、そのとき後ろから女の人の悲鳴が聞こえました。思わず飛び上がるほどのすごい声でした。
 その声にすっかり動転してしまって、その後のことは、断片的にしか覚えていません。
 理髪店のドアを開けて出てきた大沢さんに飛び掛かるようにして包丁を突き刺しました。大沢さんが目を大きく見開いて私を見たことは覚えています。私はそのとき、仕事は終わったと思いました。ちゃんと院長先生に言われた仕事はやり遂げた。後は逃げるだけだと。
 私は走りました。走りながら気づきました。まだ包丁を握ったままでした。こんなもの捨ててしまおうと思ったのですが、どうしたわけか、包丁が手から離れないのです。しっかり握ったまま指が固まってしまって、どんなに手を振っても血に濡れた包丁が手から離れないのです。恐怖でした。人を刺してしまったことより、血まみれの刺身包丁がまるで私の身体の一部になってしまったかのように手から離れないことのほうが、怖かった……。包丁を手放そうと、むちゃくちゃに腕を振り回しながら私は走りました。
 商店街の終わりを左に曲がったところに、河内さんがライトバンで待っているはずでした。早くライトバンに乗ろう。河内さんにこの包丁を取ってもらおう。私は泣きながら走りました。とても長かった。何㎞も走っているような気がしました。
 角を曲がった途端、河内さんの顔が目の前にありました。いえ、正確に言えば、河内さんは目だけが見える帽子をかぶっていましたから、河内さんの目が私の目の前にありました。あれ?もう少し先で待っているはずなのに、と思いました。その途端、ものすごい衝撃が腹に来て……。
 私の身体は河内さんの車にはねられて後ろに飛ばされました。そして、宙を飛んでいるほんのわずかな時間で、私にはすべてのことがわかりました。私は利用されただけなんだと。
 信じていただけないかもしれませんが、本当にそうだったんです。仰向けになって飛んでいたとき、とても綺麗な青空が見えました。昔U村で見た広い広い空を思い出しました。自分はもう何年も空を見上げることなんかなかったな、と思いました。うつむいて下ばかりを見ていたな、と。そして青空を見ながら、ああ、私は何ということをしてしまったのだと思いました。河内さんの目には殺意があったのです。それはそれは恐ろしい目でした。ああ、この人は最初から私を殺すつもりだったのだとわかりました。そして、院長先生の計画もわかったのです。私に大沢さんを殺させて、そのあと河内さんに私を殺させる計画だったのだと。私を助けるつもりなんか最初からなかったのだと。それらのことが、本当に、ただの一瞬でわかりました。そして、騙されて、利用されて、二人の人を刺してしまった、その罪深さにやっと思い至ったのです。どうしよう、どうしたらいいんだろう……。
 そのとき私の後頭部が何かに当たりました。グシャリという音が聞こえました。青空が急に真っ暗になって……それから後のことはわかりません」

 中里茂の長い話が終わった。そのときの感情が蘇ったのだろう、彼の目からは涙がとめどもなく流れた。白拍子がそっとタオルを手渡した。
 友引警部は調書を取りながら、これがウソ偽りのない事件の全容だろうと思った。事件のことは中里の耳には一切入れないようにしてある。ところどころ記憶が飛んでいるところがあるようだが、この被疑者は誠心誠意、正直に供述しているという感触を持った。凶悪犯罪の被疑者ではあるが、友引はこの男をなんとも不運で哀れな人間だと思った。そして、迷った。彼が刺した二人が死んだことや、逃げる途中でもう一人、女性を殺害していることを、いまこの場で告げるべきだろうか。
 タオルに顔を埋めて嗚咽する中里を、白拍子が、疲れたろう、と優しく労わってベッドに横にしてやった。それを見て、友引もきょうのところはこれで切り上げようと思い、最後にひとこと声をかけた。
「よく頑張って話してくれた。他に何か話しておきたいことはないかい?」
 中里は、鼻をグスグス言わせながらしばらく考えた後に、不思議な夢を見ました、と言った。
「ほぅ、どんな夢だい」
 友引と白拍子がまた椅子に座り直すと、中里は語り始めた。
「河内さんの車にはねられた後、私はきっと病院へ運ばれたのでしょうね。私自身にはその記憶はありませんが……。治療を受けているときのことだと思います。どれほどの時間がたったのかわかりませんが、時折ふと……、そう、まるで暗い水の底から水面近くまで浮き上がるような感じになることがありました。でも完全に浮き上がることはできなくて、そんなとき、私の心の中は、後悔と悲しみと苦しさでいっぱいでした。ちょうど青空を見ながら宙を飛んでいたときに感じていたのと同じ感情です。どうしようどうしよう、誰か助けて、と叫びたいのですが、肺の中が水でいっぱいになっているような感じで声も出ないのです。そしてまた真っ暗な水の底に落ちていく。そんなことが幾度かありました。そして、回数を重ねるにつれて、だんだんと水面が遠くなっていくのです。浮き上がる力がなくなっていくのです。もう自分はあそこまでは上れないのだと思いました」
 白拍子は痛ましそうに顔を歪めて中里の話を聞いていた。それはきっと自分が治療に当たっていたときのことだろうと思った。意識はないと思っていたが、中里がそんな夢を見ていたのかと思うと、たまらない気持ちだった。
 中里は話し続けた。
「真っ暗な水の中を私は漂っていました。もう水面ははるか遠くです。とても寒かった。とても悲しくて苦しくて辛かった。それだけしか無い世界でした。そして、もっともっと深いところまで沈んでいきそうになったときのことです。ふいに、私は温かくて柔らかなものに包まれたのです。それはとても心地の良いものでした。そして、声が聞こえました。聞いたことのない声でした。その声は私に、生きろ、と言いました。おまえは新しく生まれ変わる、どんなに辛くても生きろ、と」
 白拍子は、あッ!と思った。あのときだ!白拍子は思い出していた。中里の脳を取り出したBJが、その脳を両の掌の上にそっとすくい上げ、何かを語りかけるように見つめていたのを。あのときのことだ!実際にはBJは声に出しては何も言わなかったはずだ。少なくとも自分には何も聞こえなかった。だが、あのときBJは中里に、生きろ、と語りかけていたのだ。そして、耳も何もないただ脳だけになった中里は、その声をちゃんと聞き取っていたのだ!
 白拍子は自分の身体がカタカタと震えるのを抑えることができなかった。震える指先を自分の口元に持っていった。そうでもしないと、何かわけのわからないことを叫んでしまいそうだった。これは……、奇跡か?!
 友引はそんな白拍子を不思議そうにチラリと見たが、特に何も触れずに、それで?と、中里に話の続きを促した。
「はい。私の夢はそこまでです。でも、あの声を聞いてから、暗い水の底を這いずり回っているような感覚はなくなりました。このベッドの上で目を覚ましたときには、真っ先に、自分は生まれ変わったのだと思いました。もう以前の自分ではないと思いました。そして……、そして、どんなに辛くても、自分が犯した罪は償おうと思いました。自分はそのために生まれ変わったのだと……、生まれ変わらせてもらったのだと、そう感じました。刑事さん、私が刺した人たちはきっと亡くなられたのでしょうね。どんなに反省しても後悔しても謝罪しても取り返しのつかないことを私はしてしまいました。でも、生まれ変わったこの命で、一生懸命償おうと思っています。それが私の生きる意味だと思っています。これまで、生きているという実感もなく、無気力にその日暮らしを続けてきた私ですが、やっとこんな形で自分の生きる意味を見つけることができました。先生、刑事さん、あの声は神様の声だったのでしょうか……」
 中里の目からはまた涙が溢れたが、それはこれまでのような悲しさや悔恨の血の涙ではなく、大きな感動に裏打ちされて生きる覚悟をした者だけが流せる、どこまでも澄んだ美しい涙だった。


「中里を使って大沢を殺そうとした謎の人物『X』は東西大学病院の池端院長だったってわけだ。中里に大沢を殺させ、次に中里を河内にひき殺させる計画だったのに、何の因果かその中里が自分とこの病院に運び込まれたんだから、そりゃあビックリしたろうぜ、なあ」
 梅雨も明けた夏の夜、友引警部はBJ邸を訪れて中里の供述内容と事件の顛末を語っていた。手土産に持ってきたノンアルコールビールで喉を潤し、時折おつまみの柿の種をポリポリ噛んでいる。照明を落としたBJ邸の窓は開け放たれ、夜の海風にカーテンがそよいでいる。
「池端はしばらくはふてぶてしく黙秘していたんだが、中里と河内が正直に話してくれるからこっちはどんどん追及できた。それに、決定的な証拠として、河内が中里をひき殺すように命じられたときの録音テープがあったんだ。河内って奴もなかなかしたたかな小悪党で、抜かりなくちゃんと隠し録りしていたんだな。それを突きつけたら、池端も観念してようやくポツポツとしゃべってくれるようになった。全面自供も目前だ。河内という男は、東西大学病院の麻酔科に籍を置きながら、池端の個人的な用事をいろいろこなしていたらしい。中里をひき殺すのに失敗した後は、G県の中央郵便局の防犯カメラに写っていたりもするんだ。高額の為替を作ってどこかに送ったらしいんだが、これもきっと池端の命令だろう。叩けばいくらでもホコリが出そうな奴だよ。いやあ、しかし、二人も逮捕者を出した東西大学病院はもうガタガタだな。白拍子先生はまた海外へ行くようだし、安井事務局長は腑抜けのようになっていたぜ」
 警部は、腹が膨れるばっかりだ、とぼやきながらも、3本目の缶のプルトップに指をかけた。
「そうそう、池端は過去に起こした医療事故で大沢に強請られていたようだ。カルテを改ざんしたのを大沢に嗅ぎつけられて、毎月かなりの大金を大沢に貢いでいた。これでやっと大沢を本格的に調べられるところまでこぎつけた。本人が死んでいるからなかなか難しいこともあるだろうが、俺はやるぜ。いまにでっかい悪事を暴いてやる。……いやあ、それもこれもみんな先生のおかげだ。礼を言う」
 警部はペコリと頭を下げた。
「別に、あんたに礼を言われようとは思っていないよ。それに、そんなテープが出てきたのなら、河内の証言だけで十分だったろう。中里の証言なんか別に要らなかったんじゃないのかい」
 BJが言うと、警部は、いやいや、と顔の前で手を振った。
「考えてもみろよ、先生。河内をとっ捕まえることができたのは、奴が池端の命令で先生を襲ったからだぜ。もしもあのとき池端がそんな命令を出さなかったら、河内の存在なんか俺たちにはわかりゃしなかったんだ。結局、池端が余計なことをしたってことなんだが、そうさせたのは先生、おまえさんだぜ。もしかしたらおまえさんが中里を治してしまうかもしれない、そう思ったからこそ、焦った池端は河内に先生を襲わせたんだ。池端のボロを出させたのは先生なんだ。だから、この一件の立役者は先生なんだよ」
 そう言って、警部はまたペコリと頭を下げた。
「もういいって。それより、患者は、中里茂は元気かい」
「ああ、まだ入院中だが、毎日リハビリに励んでる。いずれ裁判にかけられることになるが、たとえ死刑の判決が下っても、しっかり罪を償う覚悟だと、何度も何度も俺に言うんだ」
「そうか」
 BJはポツリと言った。
 警部は少しの間、黙った。中里の証言が池端の悪事を暴き、更には巨悪を暴く突破口にもなったことは刑事として喜ばしく思う。しかし、中里のこれからを思うと心苦しいものがある。
「なあ、先生。俺はいまになって、中里の命が助かったことが良いことだったのかどうか、わからなくなってるんだ。もし死刑が求刑されれば、先生は中里を死刑にするために助けたことになっちまわないか?先生は……どう思う?」
 BJはノンアルコールビールを一口飲むと、言った。
「たとえ結果的にはそうなるとしても、私はそんなつもりで手術したわけじゃないよ。ただ、あの患者があのまま死んではいけないと思っただけだ。あの患者には……、いや、何でもない」
「何だよ。何を言いかけたんだよ」
「何でもない。さあ、もうそろそろ帰ってくれないか。私はちゃんとアルコール分のあるビールが飲みたい」
「俺が車で来てるんだからしょうがないだろう。ちぇッ、はぐらかしやがって……。わかったよ。帰るから最後にあと一つ答えてくれないか」
「何だ」
「俺にはわからないことがいくつかあるんだ。先生がどんな手術をしたのかというのが一つ。でもまあ、これについては、専門的な難しいこと言われても俺にはわかんねえから、よしとしよう。白拍子先生に訊いても何も言わねえしな。もう一つどうしてもわからないのは、中里が自分の顔が元通りだって言ったことだ。これはどういうことだ?俺は手を回して、集中治療室にいたときの中里の顔を見てみたんだよ。顔の皮がズル剥けていて、パックリ傷が開いてて、鼻はないし、もうそこらじゅうグシャグシャだった。ホラー映画のゾンビよりも酷いありさまだった。元の顔かたちなんかわかりゃしなかった。それをどうして、元通りの顔に復元できたんだ?」
 BJは、偶然だ、と言い放った。
 警部は、そんな偶然があるかよ、と食い下がったが、もうBJからは何も聞き出せそうになかった。
 帰れ帰れと追い立てられて、警部は渋々BJ邸の外に出た。BJが玄関の階段のところまで見送りに出る。今度は逮捕令状を持って来るからな、と言う警部に、BJが、もう二度と来るな、と言い返す。ハハハと笑って数歩進んだ友引警部は、急に振り返って直立不動の姿勢を取り、右手を額にビシリと当てて敬礼をした。真面目な顔をしていた。彼なりの敬意と謝意を表すと、BJがドギマギしている間に、車に乗って帰って行った。

 赤いテールランプが遠ざかると、夏の虫が鳴く声とかすかな潮騒が聞こえてきた。BJは誘われるように階段を降りると空を見上げた。南北に天の川が流れ、天頂近くに夏の大三角が見える。
「あえはなんていう星?」
 突然、足元から声がした。
「ピノコ、まだ起きてたのか。もうとっくに寝てると思ってたのに」
「まだ宵の口よのさ。ねえ、あえはなんていう星?」
 精いっぱい腕を伸ばしてピノコは星を指し示す。
「こと座のベガだ。七夕の織姫だよ」
「じゃあ彦星はどえ?」
「天の川の反対側の岸辺にいるよ。わし座のアルタイルだ。七夕の頃しか話題にならないけど、一年中ずっとああやって割と近くにいるんだ」
 先生とピノコみたいね、とピノコははしゃいだ。
「もう一つのあかゆい星は何?」
「はくちょう座のデネブ。大きな翼で天の川の中を飛んでるんだ」
「ふうん」
 ピノコはしばらく口を開けて天頂近くの星を見つめていた。
「ねえ、先生。つばさくん、どうなゆかちらね」
「……つばさくん。誰だいそれは」
「あの事件でお母さんをこよさえてしまった小池翼くんよ」
「……どうしてその子のことが気になるんだい」
「らって……」
 ピノコはBJの脚にぴったりと寄り添った。
「先生はつばさくんのためにあの犯人を助けたんれしょ?」
 え?とBJはピノコを見下ろした。
「あのまま、わけもわかやないまま、犯人が死んれしまったや、つばさくん、気持ちの持って行き場所がないれしょ。お母さんがろうちてこよさえちゃったのか、わかやないままなんて、ひろすぎゆれしょ?ちゃんと生きて、わけも話して、心の底から謝ってくえなくちゃ、つばさくん、あの犯人を許すこともれきないれしょ。先生、そう思ったかや、あの犯人を助けたんれしょ?」
 BJは言葉を失っていた。誰にも一言も漏らしていない自分の心の中を、この子だけはすべて見通していた。
 そう。自分と同じような理不尽な事情で、幼くして母を亡くすことになってしまった小池翼という少年のために、自分は手術をしたのだ……。
 ピノコは小さな指で星を繋いでいる。
「あんなに大きな翼があゆんらかや、きっとつばさくんはらいじょーぶね。きれいな天の川の中を、ろこまれも飛んでいけゆのよさ」
「……ああ、そうだな」
 言いながら、BJはピノコの柔らかな髪の毛をグシャグシャにしてやった。
 んもぉ~、せっかくブヤッシングしたのにぃ!と怒るピノコ。もう寝るぞ、とスタスタと家に向かうBJ。
 満天の星がシャラシャラとさざめきながら、ふたりの影を見送っていた。

                                                            (
了)